旅・観察

車を借りに

Sさんの故郷、ターウジュート村には車で行くことになった。チュニスから六時間だという。だが問題はその車だ。Sさんは車がないので借りなくてはならない。

去年の八月、やはり車でターウジュート村に行くことを計画していたが、直前になって車がキャンセルされてダメになった。チュニジアではなんでも計画通りにいかない、とSさんは怒っていた。

今回は大丈夫そうだ。午後に車を取りにいくから一緒に行かないか、とSさんが提案してくれた。レンタル料を払うのは私だから自分で行ったほうがいいに決まっている。面倒くさかったが行くことにした。

私たちは待ち合わせ場所に集まり、歩き出した。どこに向かうのかと思ったら、郊外電車の駅だという。てっきり歩いてすぐのところかと思っていたが、目的地はずいぶん遠くなのだ。

郊外電車の駅までもけっこう遠い。駅に着くと、Sさんが言った。「カバンを前にかけて、携帯電話に注意するんだ」 私はこの電車には何度も乗ったことがあるが、そんなに混まないし、スリがいるような雰囲気ではない。現地の高校生たちがワイワイ騒いでいるような電車だ。

Sさんは切符を窓口で買うと駅を出て、その脇に止まっているバスに乗り込んだ。

「路線工事で今は電車は走っていないんだ。それで代わりのバスで行くっていうわけだ」

バスは満員だった。みなおしゃべりに夢中で、携帯を見ている人はわずか数人だ。私も携帯を見たかったが、Sさんの注意を思い出して我慢した。

「工事はいつ終わるんですか」

「チュニスではそういうことはいっさいわからないよ」

満員の上にさらに何人かが乗り込み、バスは動き出した。

もし私が同行しなかったら、車を借りるためにSさんがどんな苦労をしているかわからなかっただろう。そしてそのぶん私は、ちょうど日本の電車が工事だからといって運休しないのを当たり前だと思うのと同じように、Sさんがレンタカーで私を迎えに来てくれるのを当たり前だと思ったことだろう。

私は彼に感謝した。そして揺れるバスの中で考えた。行きは確かに大変かもしれないが、帰りはレンタカーだから楽に決まってる、と。

バスは目的地に到着し、私たちはレンタカーの事務所に行った。壁に大きく会社のロゴと車の絵が描かれ、模型の小さなフェラーリが天井から吊るされていた。中に白い電灯があった。デスクにいた若い女性がビニール袋から車の鍵をいくつも取り出して目の前に並べた。

そして私たちは、車が明日の朝にならなければ用意できないことを知った。帰り際、私がフェラーリの写真を撮りたいというと、女性は隣の部屋にも別の車が吊るされていると自慢げに教えてくれた。

苦い文学

読書灯の悲しみ

飛行機に乗るたびに、私は暗い気分にならずにはいられない。機内の読書灯たちの悲しみを思うと、どうしてもそうなってしまうのだ。

昔は、人々は飛行機の中で本や雑誌を読んだものだった。そして、そのために設置された電灯、つまり読書灯を遠慮なく活用したものだった。

だが、時代は変わった。今や、人々は本など読みはしない。機内では映画を楽しむこともできるし、スマートフォンがあれば、動画や読み物にはこと欠かない。そして、これらのデバイスに読書灯は不要なのだ。読書灯たちは、携帯の動画や機内エンターテインメントに夢中になっている乗客たちを見て、どんな思いでいるだろうか。

「いや、私は読書家だ」という人もいるかもしれない。だが、はたしてこの読書家たちに、機内で読書灯をつける勇気がおありだろうか? それぞれの画面を見つめる人や、眠っている人、眠ろうとしている人のただなかで、自分だけ読書灯をつけ、無作法なまでに眩しい光で周囲の人々の安寧を妨げる胆力がおありだろうか? もちろんないに決まっている。悲しいことに、本の虫は弱虫でもあるのだ。

白状してしまえば、この私だって、そんな勇気はないのだ。ただ、暗闇の中ひとり座り、持ってきたが決して取り出すことのない本のことを思いながら、いつしか眠りが訪れるのを待つしかない。せめて、夢の中で本を開くことができると期待しながら……。

そして、今、酷寒の空で、悲しみを抱きながら沈黙している読書灯たちもまた、生まれたての太陽のように輝いてくれることだろう。

苦い文学

その人

私は最近その人のことばかり考えている。3年前、同じ職場にいた人だ。ほとんど交流はなかったように思うし、あったとしても、どんな機会にどんな話をしたかとか、まったく覚えていない。だけど、いまになって、その人のしなやかな白い指や、陽の光に照らされた頬のみずみずしさや、まるで庭園でも歩くかのような優雅な足の運びが鮮烈に思い出されるのだ。

私はいつしかこの思い出の強烈さに苦しめられるようになった。まるでその人は私の目の前に今もいるかのようであり、その鮮やかな映像はまるで炎のように私の胸を焦がした。

それがもはや耐え難くなったとき、私はその人に会おうと決意した。インターネットで私はその人のかすかな痕跡をたどり、ついに SNS にたどり着いた。その人の投稿と写真を綿密に検討し、私はその人の家を突き止めたように思った。

これは、その人の家に行け、ということでなくてなんであろう? 運命も私とその人を結びつけているのだ。だが、もちろん、私はストーカーなどではなかった。ただ会って、自分の思いを伝えて戻ってくるだけ。その人もわかってくれるはずだ……私は家を出て、電車を乗り継ぎ、その駅にたどり着いた。ゆるやかな坂を降り、大きな橋を渡った。

まるで不思議なことなのだが、近づけば近づくほど、あの強烈な印象が薄れてきているように感じられた。その人の家の近くにまでやってきた、と意識した瞬間はなんとなく覚えているが、その後、どうしたわけか、私は町の名所巡りをした。

そして、駅に戻り、電車に乗って遠ざかるにつれて、私の心の中にその人の輝くような印象が徐々に戻ってきた。それはますます強烈になり、自分の家に戻ってきた私はいま、その人に会いたいという思いに煩悶している。

苦い文学

精神と肉体

青春時代には誰もが愛について悩む。私も学生時代、大いに愛に苦しんだものだった。

私を悩ませたのは、愛の二面性だった。愛は私の心を高鳴らせ、気高い気持ちで満たした。かと思うと、その同じ愛が、私の肉体にけがらわしい欲望を掻き立てるのだった。

「愛とは、精神から生まれた神聖なものなのだろうか。それとも、肉体から生まれた卑俗なものに過ぎないのだろうか」

この問いは私を苦しませ、悶えさせた。夜も眠れなくなった。ただでさえ繊細だった私は、やつれていった。

私の異変は周囲の注意を引かずにはいなかったようだ。当時、私は学生寮に寄宿していたのだが、寮長のO先輩が心配して声をかけてくれたのだった。

法学部で学ぶO先輩は私の悩みを聞くと、やさしく肩に手を置き、こう助言してくれた。

「そういう問題はあまり根を詰めて考えるものではないよ。むしろ心を落ち着けて、体の力を抜いてみたまえ。そうすればおのずと答えは見つかるだろう」

私は半信半疑であったものの、敬愛するO先輩の言葉なら、とさっそくその通りにしてみた。

そのとき私とO先輩は寮の1階ロビーのソファに座っていた。私はソファに身を沈め、目をつぶり、緊張を解いた。

すると、私の脳裏に精神と肉体が立ち現れた。そして、精神と肉体の間に美しく輝く丸い存在が浮かんでいた。

愛だった。

精神と肉体はといえば、その愛を自分の側に引き寄せようとしているのだった。愛は両者の間でひっぱられ、その力があまりに強くなったので、苦悶の叫びをあげた。すると、精神はひっぱるのをやめ、肉欲は愛を我が物とした。

私は目を開いた。O先輩が尋ねた。「答えは見つかったかな。いや、その表情を見るかぎり問うまでもなさそうだな」

「はい」と私は明るい声で答えた。「これもO先輩の名裁きのおかげです」

苦い文学

相談してみませんか

コロナ禍の厳しい暮らしももちろんだが、そもそも、日本社会がそれほど寛容ではないせいもあって、今、多くの人々が悩みと生きづらさを抱えながら、生きている。

そうした悩みや苦しみを相談できる人がいればいいが、そうではない場合、人は孤立し、絶望を深め、時には自殺を選ぶこともある。

こうした悲劇を少しでも食い止めようと、多くの団体が、電話での相談窓口を開設している。有名なのは「いのちの電話」だが、それ以外にもたくさんある。

ここに紹介するのはそうした窓口のいくつかだ。悩んでいる人、あるいは、そうした人のそばにいる人はぜひ利用してみてほしい。

【芸能人・有名人・富裕層の方専用(全年齢)】
03-XXXX-XXXX(いのちサポートセンター)
0120-XXXX-XXXX(心の電話相談)
0120-XXXX-XXXX(メンタル・ケア協会)
080-XXXX-XXXX(心の相談窓口)
090-XXXX-XXXX(NPO法人いのちホットライン)
090-XXXX-XXXX(命を守るコール)
03-XXXX-XXXX(絆コミュニティ)
03-XXXX-XXXX(自殺防止協会)

【上記以外の小学生専用】
080-XXXX-XXXX(キッズ相談窓口)
090-XXXX-XXXX(子どもいのちセンター)
03-XXXX-XXXX(チャイルド・ケア・スクール)
0120-XXXX-XXXX(心のシェルター)

【上記以外の10代・20代の方専用】
090-XXXX-XXXX(青年自殺対策センター)
03-XXXX-XXXX(NPO法人ユース・ケア)
0120-XXXX-XXXX(いじめを許さない!WAKAMONOネット)

【上記以外の30代・40代の方専用】
080-XXXX-XXXX(労働問題センター)
090-XXXX-XXXX(いのちのナビダイヤル)

【上記以外の50歳以上の方専用】
0120-XXXX-XXXX(葬儀費用無料見積もり)