中身のない言葉の巧みなところはまた、これが受け手に物語を喚起することにある。
「やり抜く政治」は「やり抜かない腑抜けた政治家とは異なり、やるべきことを遂行する政治家」という物語に結びつく。さらに、ここには敵と味方という対立関係が隠されており、やり抜かない政治家の妨害に負けずに立ち向かうという、一段上の物語にも発展しうる。「ぶれずにまっしぐら!」「今こそ変化!」も同様だ。
「取り戻す!」はさらに手が込んでいる。これが受け手に呼び起こす物語は、「何かが失われた。そして私たちはそれを取り戻す」というものだ。そして、受け手は単に失われただけでなく、失うことになった原因、あるいは奪った相手の存在にまで思いを巡らせるかもしれない。すると例えば「大事なものを我々から奪った敵を打ち負かし、それを奪い返すことによって勝利する」という派手な物語にまで膨らみうる。そして、このように喚起された物語は、受け手が中身を補って完成させたものであるから、受け手の物語でもある。これにより、受け手は自分の物語を当該政治家に託すことになるのであり、これは容易に政治的支持に結びつく。
ここで重要なのは、「取り戻す!」と言った当人は、「特定の敵に大事なものを奪われた」などとは一言も言っていないことだ。もしそのようなことを言ったとしたら、その主張について根拠を示す責任が生じるが、「取り戻す!」とだけ言っているかぎり、そのような責任を避けることができる。そこで、受け手がこの標語を聞いて「特定の敵に大事なものを奪われた」と解釈し、それを公言した結果、事実ではないと非難されたとしても、標語の主は「自分はそんなことを言っていない」と、その解釈についての責任を否認しうるのである(これは、実際のところニュースで飽きるほど聞かされたやり取りだ)。
このように中身のない言葉は、受け手に中身を埋めさせることによって物語を喚起し、さらにその物語に関与させるという働きを持っている。そして、もうひとつの利点は、標語そのものには中身がないのだから、その解釈について政治家は責任を負わずに済ませることができるということにある。
つまり、政治家たちの中身のない言葉がどのように解釈されても、政治家たちは知らない顔をすることも可能だ。なぜなら、中身のない言葉には中身がないのだから。
だが、それでいいのだろうか。
少なくとも、中身のない言葉を使ったこと自体は、中身のあることなのだから、そのことについては責任を大いに問われるべきだろう。