苦い文学

宇宙的恐怖

夜、無数の星々が輝く空を見上げて、畏怖の念にとらわれぬ人間がいるだろうか。

この畏怖を突き詰めると、やがて我々は底知れぬ恐怖に直面する。この宇宙の途方もない大きさと冷たさのなかでは、我々人類がどんなに助けを叫ぼうと、ただ虚空に飲み込まれていくだけなのだ。

これがアメリカの怪奇・幻想小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトのいう「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」だ。

私の友人の文学者は、ラヴクラフトのこの「宇宙的恐怖」に触発されて、新たな文学的概念を提唱するに至った。

「宇宙的恐怖」があるならば、その対極である「宇宙的滑稽(Cosmic Funny)」もあるはずではないか、というのだ。

彼はさっそくこの概念を実作で示すべく創作に没頭した。その内容について知りたがった私に、彼は「地球は宇宙的滑稽にさらされている」という書き出しの一文を教えてくれたのみだった。

そして、ついに今日、その作品が私のもとに送られてきた。

漁村に住む人は魚に顔が似てくる、という話だった。

苦い文学

朝出かけようとすると、雨が降っている。それで、あなたは傘を差して外に出る。やがて雨が止み、しばらく経つのだが、その時あなたは不意に気がつくのだ。

傘が無くなっていることに。

もしかしたら、電車の中に置き忘れたのかもしれない。いや、立ち寄った店の入り口の傘立てだろうか、それとも、もしやトイレで? しかし、すでに電車は過ぎ去り、店から去ること遠く、トイレは汚れちまっている。

結局、あなたは新たに傘を買うこととなるのだ。再びそれを失うために。

あなたは考えたことがあるだろうか。これはすべて巧妙に仕掛けられたトリックだということに。

連中にとっては天気を操ることなどお手の物なのだ。そして、傘の柄に奇妙な形状を与えて、それを持つ者の意識を朦朧とさせることも。

連中はそのような詭計によって、私たちに常に傘を紛失させて、もっともっと傘を買わそうとしているのだ。それで利益を得るのは誰だろうか。もちろん、傘屋以外にあるだろうか。

この憎むべき傘屋たちは秘密結社を結成し、私たちの傘への欲求を極限まで増幅すべく、世界中で日夜暗躍を続けている。

だが、いったいなんのために? おお、それは問うまでもないことだ。

連中の目的は、人類を傘下に入れることなのだ……

苦い文学

不思議な話

昨年のことだが、不思議な体験をした。

ある人と話していて、「Lemon」の歌手は誰だということになった。

もちろん私は知っていたが、その名前が出てこず、なぜか賀来賢人が現れた。私は彼ではないのがわかっていたのだが、賀来賢人が邪魔してそれ以上先に進めないのだった。

結局私は諦めたが、きっと「Lemon」の歌手の名前は賀来賢人とどこか類似点があるに違いないので、歌手名を思い出したら、比較してみようと考えた。

それからしばらくして、米津玄師が頭の中に出現した。

ついに思い出したのである。そこで、私は米津玄師という名前が、先ほど出てきた名前とどのような関係にあるのか考えようとした。

不思議なことが起きたのはこのときである。

私はその名前(つまり賀来賢人)を今度は思い出すことができなくなっていたのだ。

「ついに探し物が見つかったね。僕の役目はこれまでだよ……」

そんなふうに、賀来賢人は私の目の前から姿を消したのだった。

彼の名前が再び蘇ったのは、その日の夜、テレビで私がムロツヨシの顔を見た瞬間であった。

そして、この不思議なできごとを書き留めている現在の私は、米津玄師の身代わりとなって現れた存在が、賀来賢人であったのかについてにすら、もはや定かではなくなってしまっている。

はたしてあれは誰だったのだろうか……? ひょっとして……!!!

苦い文学

働かざる者に

無職にもかかわらず、果敢にも食べ続けた人が私たちの先輩にいた。

ストイックにタダ飯を食らうその姿は、まるで「働かざる者食うべからず」という記録に挑むアスリートのようであった。

その大胆不敵な食べっぷりを見てある唯心論者が先輩をこう批判したことがあった。

「こんな穀潰しに食べさせる金があるなら、猫を救ってほしい」

というのも、この人は愛猫家で何匹も保護猫を飼っていたのだ。彼の言葉を聞くや先輩、そのお宅を訪問した。主人は不在であったが、そのまま上がると、片手で猫どもをすくいとった。そして、庭先で丸焼きにして食べてしまった(ご馳走に招待されたと思ったのだ)。

あるとき私たちのもとに先輩からこんな手紙が送られてきた。

「働かざる者こそ食うべきであるとの信念のもと、世の通念に逆らい、不惜身命の思いで食べつづけてまいりましたが、この度をもちまして引退いたします」

私たちは「ついに先輩も就職か」と仰天した。ある者は新たな門出を喜び、ある者は裏切りだと憤慨した。しかし、引退の理由についてはっきりとは分からなかった。

しばらくしてその真相が明かされた。

後進の育成にあたられるということであった。

苦い文学

働かざる者

無職の私だが、それでもお腹は空いた。不思議なことに、朝起きれば朝食が、お昼になると昼食が、日が暮れれば夕食が、そして夜には夜食がほしくなった。

働かざる者食うべからず、というが、私はどうしても食べてしまうのだった。

私は空腹になると、鳴り止まぬ布袋腹を叩く。

「この腹め! この貪欲な胃め!」

私は口寂しくなると、憎きアヒル口を爪でかきむしる。

「この口め! このみだらな唇め!」

だが、結局は食欲のほうが勝つ。打ちのめされた私は悔し涙にくれながら、カツ丼や天丼、上ウナ丼を掻き込むのだった……。

しかし、この激しい悔悟と苦しい胃もたれの日々も終わるときが来た。私は、食事と食事の間の瞑想から目覚めると叫んだ。

「働かざる者が食べてはいけないのなら、おお、なぜ神は、無職の人間に食欲をお与えになったのだ! 勝手に食欲を与えておいて、それを禁ずるとは」

私は立ち上がり、肉まんと焼きそばパンと鮭おにぎりを抱えた。そして天を見上げると、怒りを込めて「食欲はなんのためにあるんだ!」と叫んだのだった。

苦い文学

冬来りなば

私は現在、コロナ禍はもちろんのこと、他の点についても逆境にあるが、「明けない夜はない」という言葉を聞いて、励まされたように思った。夜の闇がやがて暁光に追い払われるように、あれやこれやの苦難もまたいずれは霧散するのだろう。

だが、よくよく考えてみると、夜はなにもせずに待っていれば朝になるが、苦境はそうではない。コロナ禍もまさにそうだ。手を消毒したり、マスクをしたりしなくてはならない。それに、こういった個人でできることだけではなく、コロナ感染者を減らすためのさまざまな取り組みに社会全体が協力するのではなくては、これを克服することは難しい。

となると「明けない夜はない」というのは、コロナとか人生とかとはまったく関係ないのではないだろうか。それは「青に変らない信号はない」とか「伸びない髭はない」とかと同じなのではないか。

「してみると」と私は独り言ちた。「この言葉に励まされたのはとんだ大損だったわい」

そして私は布団に潜り込み、昼までぐっすり寝たのであった。

苦い文学

聖なる泉

2度目のワクチン接種をした日の深夜から、2日間ほど発熱した。

最初に熱が38度を超えたとき、私は小躍りした。発熱したら、横になりながら一日中韓国のドラマを見ていようと思っていたのである。

しかし、すぐに悪寒と震えが追いかけてきて、のんきにドラマを見るどころではなくなった。それどころか、私は熱にうなされ、その間中、頭の中で誰かが韓国語で話しつづけていた。ただし、私は韓国語はわからない。

まるで夢で韓国のドラマを見つづけているかのようだった。苦しくて目が覚めるが、ウトウトするとまたドラマが始まった。

その内容はまるで覚えていないが、ひとつだけ記憶に残っているのがある。

私の熱を下げるためには、泉の水を頭にかけるべしという診断が下された。だが、その泉は離れた場所にあり、バケツリレーで運ぶことが推奨された。それができるのは、BTSやSEVENTEEN、DKBのような大人数の男性グループだけだ。熱に苦しみながら私は待ちつづけたが、来たのは分裂した後の東方神起であった。

熱が落ち着いた後は、布団の中で韓国のドラマを見て過ごした。

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リテラシー教育の必要

リテラシーとは情報の真贋を見分けるための指標であり、特に重要なのは、その情報の発信者が専門家であるかどうかである、と前に書いた。

情報過多ともいえる現代では、このリテラシーについての教育もまた急務となっている。つい最近のことだが、そのことを痛感させる出来事に遭遇した。

私が電車の中で痴漢をしていたときのことだ。私は不覚にも周囲の乗客に取り押さえられ、次の停車駅で駅員に突き出されたのだった。

私は否認した。しかし、私を捉まえた男たちも、痴漢をされた女も私がやったと主張し、駅員もそれを信じかけているようだった。そこで、私は次のように訴えたのだった。

「私はこの道何年もの痴漢の専門家であるが、あなたはその専門家の『やってない』を信じずに、これら素人の言う『やった』を信じるのか」

こう迫ると、駅員は私を警察に引き渡した。私は警察にも同じことを言い、さらには裁判でも同じことをはっきりと言ったのである。

まったく、専門家が重んじられないとは嘆かわしい世の中だ。私は刑期を勤めあげたらリテラシー教育にこの人生を捧げたいと思っている。

苦い文学

お昼ご飯

今日は、ある方の貴重な蔵書をいただいた。

その方はもう亡くなられたが、お宅には蔵書がそのまま残されている。管理されている方は、これらの書籍をただ単に処分してしまうのではなく、必要とする人に利用してほしいと希望されたのである。

お宅に伺って、その蔵書を拝見したのだが、その量と、丹念な収集ぶりに驚かされた。さっそく私は書棚を徘徊し、数々の興味深い書物を確保したのだった。

しかし、と膨大な書籍を前にして私は思った。本を集めすぎるのも考えものだ、と。どんなに貴重な書物も、残された家族にとっては重荷でしかないのである。

今年で五二歳になる私は、終活にはまだ少し早いかも知れないが、今から少しずつ本などを処分しておこうと決意した。ただ、私が今回入手した本の量を前にしては、その決意も水の泡なのが残念だ。

お昼もご馳走になった。管理されている方は私よりも年配で「若いのだからたくさん食べて」と勧めてくださった。私はその言葉に多少の疑問を感じつつ、たくさんいただいた。

苦い文学

リテラシー

ある識者によれば「ネット上の情報はすべて嘘」なのだそうだ。

確かに、インターネットに流布する情報のうちには、悪意ある虚偽も相当あるから、そのようにはじめから疑ってかかるのもありといえるだろう。

しかし、情報の真贋を見分けるいくつかの指標がないわけではない。こうした指標はリテラシーと呼ばれるが、私の場合は、誰がその情報の発信者であるかに留意している。具体的にいうならば、その発信者が、専門家であるかどうかだ。

例えば、今の天気を知りたいとしよう。まず、気候の専門家の監修するサイトAを見ると「晴れ」となっている。情報源の不明なサイトBでは「晴れのち曇り」だ。いっぽう、窓から外を眺めると、大雨が降っている。このうちどれが今の天気として正しいだろうか?

もちろん、お天気サイトAである。なぜなら、信頼できる専門家が関与しているのはこのサイトだけだし、私は天気の専門家ではないからだ。