風刺・戯文

外国人労働者

私たちの国には、外国人労働者はいません。昔はいました。ですが、私たちはこれがイヤでした。なぜなら、外国人は私たちの文化を尊重せず、好き勝手にふるまい、私たちの国を少しずつ破壊していったから。そこで、私たちはオレンジ党に投票して、外国人を追い出してもらいました。

でも、ひとつ大きな問題が残りました。私たちは外国人を働かせていましたが、その仕事をする人がもういなくなってしまったのです。私たちの国は深刻な労働力不足に陥りました。そこで、私たちが取り組んだのが、国産外国人の開発でした。

いくどかの失敗の末、私たちはついに純国産外国人労働者の生産に成功しました。今や、これらの国産外国人労働者は国内のあらゆるセクターで厳しく危険な労働に従事しています。私たちの生活は楽になりましたし、国産外国人労働者を海外にも輸出しているので経済的にも潤っています。

やがて私たちはこれらの外国人労働者にひとつの問題があるのに気がつきました。それは老化です。国産といえども、老人になります。そうなったら働けないので廃棄するしかないのですが、これにはかなりのコストがかかることが明らかになりました。私たちはさらなる開発を進め、ついにこの問題を克服しました。今では、国産外国人労働者はある時期が来ると脱皮してもとの若い労働者に生まれ変わります。

私たちが生み出しておいていうのもなんですが、国産外国人労働者は不思議な存在です。いつもは黙々と働いていますが、私たちが声をかけたりすると曖昧な笑みを浮かべます。いつも何を考えているかわからない顔つきですが、穏やかで礼儀正しいです。

ときどき、私たちは奇妙な想念にとらわれます。これらの国産外国人労働者にも大和魂があるのだろうか、などと考え込まずにはいられないのです。

苦い文学

納豆

ジョニー・サートリスさんは外国人だ。日本に住んでもう10年以上なんだ。日本語も上手。上手だとはいっても、ときどき「素材フリー」が「惣菜フリー」に聞こえるような発音の間違いをしたりするけど(そのせいで僕たちは近所のスーパーに押しかけたんだ)。

サートリスさんは大の日本通だ。日本中あちこち旅していて、僕たちより詳しいくらい。それに日本食も大好きだ。寿司、天ぷらなんて特別な料理じゃなく、肉じゃがや焼き魚といった普通の日本食がお気に入りなんだ。梅干しやらっきょうを自分で漬けてるんだって。

そんなサートリスさんにもひとつだけ食べられないものがある。それは納豆。本当にきらいみたいで、納豆の話をすると、いかにもいやそうに眉をしかめるんだ。

「サートリスさん、納豆を食べてごらんよ、きっとおいしいよ」

「絶対にいやです」

「そんなこといわないでさ」 私たちがこんなふうに言い張ると、彼はいつもこんなふうに答えるんだ。

「私ははじめは納豆が大好きでしたよ。でも、日本人に会うたびに『納豆は食べられますか』と聞かれるのにすっかり食傷してしまい、見るのもいやになりました……」

苦い文学

自殺談義

私の友人が電話してきて「これから自殺をするつもりだ」と言った。

私は「いのちの電話じゃない!」と怒鳴りつけて切った。

しばらくするともう一度電話をかけてきた。私は出て言った。

「もう死んだか」

「まだだ」

「ああ、よかった」と私。「有名人じゃないのに自殺するなんておかしいからな」

「なに? 有名人?」

「それとも、もう有名人になったのか」

「なに? 違うよ、なってないよ」

「じゃあ、自殺なんて無理だあきらめな」

「有名人がどうしたの」

「どうしたって、今や自殺できるのは有名人だけだから」

「えっ知らなかった」

「知らないじゃすまないよ。そんなこともわからずに自殺しようだなんて、呆れたね」

「関係あるの?」

「おおありだ。たとえばお前がその自殺とやらをやったとしよう。だけど、警察はもう自殺といえば有名人だと思い込んでるのだ。だから、警察はワクワクしてやってくる。有名人に会える、とね。

「そんなところにお前の死体が伸びてたとしよう。いやもう警察はがっかりだ。それどころか、腹を立てて3回は蹴りつけるね。むろん、自殺だなんて絶対に認めない。こんなのを自殺に計上したら、日本じゅうの警察署から笑いものだ! 『事故死』と、記入して終わりさ。おまえはそれでいいのか?」

友人は否定のうめきをあげたが、私は容赦なく続けた。

「それに、はっきり言えば、もうお前にできる自殺などはない。自殺はとっくに売り切れ! 有名人と Youtuber がみんな買い占めちゃった。何回もするつもりでいるのだ」

友人は泣きそうな声で「じゃあ、どうすればいい? 外国の自殺はどう? 安いんじゃない?」

「お前のバカさ加減にはあきれたね。外国の自殺はなにが入っているかわからない。下手をすると命の危険もあるぞ! 国産をお勧めするね」

「でも、手に入らないんでしょ」

「まあ、そうがっかりするな」と私は友人を励ました。「気長に待てば、30 年後ぐらいに、有名人のお下がりが手に入らんこともないさ。その前に死なないように、体に気をつけるんだな」

苦い文学

先生

大阪府議会で、議員を「先生」と呼ぶのをやめようという提案がなされたということだ。「先生」と呼ばれて議員が調子に乗るのを防止するためだという。

教師や師匠のような教育者こそ、「先生」と呼ばれるにふさわしい、という理由らしい。

だが、「先生」とは果たしてそんなものだろうか。江戸時代の『教訓差出口』(伊藤単朴)ではこんなふうに言っている。


近ごろ、世の中で流行っているあの「先生」という言葉は、合理的で、便利な言葉です。生意気そうな奴に会ったとき、「さま」と呼ぶのは腹立たしいし、「殿」ともさすがに言いにくいが、「もし先生、先生」といえば、相手も低く見られてはいないと考えて、ふさわしい対応をするのだから、本当に「先生」というのは、よい言葉だと思います。


要するに、「先生」というのは厄介な相手をうまくあしらって、面倒を避けるための避雷針のようなものだ。

入管収容所でも、被収容者たちは、自分たちを管理する職員たちを「先生」と呼ぶが、これもいわば「敬してこれを遠ざく」の避雷針的役割を果たしている。

議員にしても同じだ。われわれがこれを「先生」と呼ぶのは、下手なことをして怒らせたらとんでもない害が及ぶのではないかという恐れ、いわば触らぬ神に祟りなしの気持ちからであって、けっして尊敬の気持ちからではないのだ。

それを「われわれが勘違いしてしまうから先生と呼ぶな」というのは、それこそ勘違いというべきで、よくもまあそこまで思い上がったかと、かえって滑稽だ。

むしろ、われわれが「先生」とおっかなびっくり呼ばなくてもいいような、まともな態度を議員たちが身につければそれで済むことではないだろうか。

このままだと、われわれは「先生」と呼べば怒られ、「さん」づけではこっちが不安、というわけで、そのうちみんな「先生」でも「さん」でもなく、「そん」と言って口をモゴモゴさせるのに落ち着くことだろう。