小説

駆け込み乗車

今日電車に乗っていたら、普段と違うアナウンスが聞こえてきた。

「先ほど〇〇駅で駆け込み乗車をされた方、怪我の有無と荷物の破損を確認したいので車掌室までおいでください」

私たちが知っているのは、駆け込み乗車や無理な乗車をした人は、弁明したり、否定したりする機会なしに、一方的にアナウンスで怒られることだ。

だが、この日私が聞いたアナウンスは今までのものとは違うものだ。これはいったいなにを意味しているのだろうか?

車掌たちが駆け込み乗車者たちに対して抱いている憎悪のほどを考えれば、このアナウンスが親切心から出たものでないことは明瞭だ。とすると、ここになんらかのトラップが仕掛けられていることは疑いない。

だが、同様にはっきりしているのは、ちょうど私がすぐにしてみせたように、誰もがこのトラップを容易に見抜きうるということだ。誰一人、この言葉に釣られて車掌室に行きはしないだろう。

では、車掌たちはそれに気がつかないほど愚かなのだろうか? これもやはりありそうもないことだ。とすれば、このアナウンスには、乗客に向けたのではない、別の隠れた意図があるとしか考えられない。

その意図とはなんだろうか。私はさまざまな可能性をひとつひとつ検討し、ある解釈に逢着した。

車掌は、ある「魔」が、人に紛れて車両内に侵入したのを発見したのだ。その魔の存在が大事故を引き起こすことを知っていた車掌は、大惨事を未然に防ぐために、魔をアナウンスで車掌室におびき寄せ、封じようとした……これが今のところもっとも合理的な解釈である。

苦い文学

アクセント機能のバグ

日本語にはアクセントがあって、日本語話者はこのアクセントで語を区別している。「あめ」と文字で書くとわからないが、「高低」で発音すると「雨」だし、「低高」だと「飴」となる。ただし、これは関東を中心とした標準日本語の決まりで、地域によっても異なるし、個人差もある。

世界にはいろいろな言語があり、このタイプのアクセントを持たない言語もある。そうした言語の話者にとって「雨」と「飴」の区別は難しいこともある。

さらに日本語学習者にとって難しいのは、複合語の場合だ。「はし」は「箸(高低)」と「橋(低高)」では異なるが、「箸」が複合語の「箸置き」となると「低高低低、低高高低、低高高高」のどれかになる。そのどれであれ、「箸」の部分は「橋」と同じアクセントになってしまう。かりに「箸(高低)」を維持したまま、「箸置き」つまり「高低高低」や「高低低低」などで発音してみると、明らかにおかしいことがわかる。

さて、本題に入ると、今朝のできごとだ。私は喫茶店に行き、カウンターに並び、順番が来るとコーヒーを頼んだ

「アイスコーヒー、エムで」

「エムサイズですね」

私が気になったのは、店員が「エムサイズ」を「高低低低低」で発音したことだ。「エム」はそのままだと「高低」だが、「エムサイズ」だと「低高高低低」となる。

私はこの人は外国人だろうか、と考えた。しかし他のアクセントは自然だ。それとも、別の地域の人だろうか? 名札を見ると、カスタマーハラスメント防止のため「T・C」とイニシャルしか記されていない。「T・C」…… Cとは?

そのとき、店員が尋ねた。

「お支払いはどういたしますか」

あまりにアクセントのことに気を取られていたからだろうか、私のアクセント機能にバグが発生した。

「西瓜で、あ、いや SUICA で!」

苦い文学

孤独の扮装

私は孤独な人間が大きらいだ。なぜなら、孤独な人間は犯罪者だからだ。

孤独な人間は、私たちの社会に対し理不尽な怒りを燃やし、恐ろしい犯罪を犯す。

放火、刺殺、通り魔、毒のばら撒き、わいせつ、大量虐殺、虐待……孤独な人間は、いつ爆発するかわからない爆弾なのだ。

政府は孤独な人間を隔離すべきだと思う。だが、人権派どもがいらぬ邪魔立てばかりする。ならば自分の身は自分で守らねばならない。

だから、私は孤独な人間を見かけるとすぐに遠ざかる。いつグサリとやられるか知れたもんじゃないからだ。

だが、よくみれば、孤独な人間がうようよしているのだ。これだけの害虫どもがもしいっせいに暴発したら? しめしあわせて? 逃げ場なんてない。どうすればいい?

私は考えに考え、ついに最善の解決策を見出した。私自身が孤独な人間になりきるのだ。もうこれ以上ないくらい孤独で、みすぼらしく、まさに誰も近寄らないような人間を演じるのだ。

そうすれば孤独な人間たちは、「このリア充め!」と振りかざしたナイフを、たちまち私から反らせ、別の人に向ける。ぶっかけようとしたガソリンも、私には一滴だって降りかからない。それどころか、「下には下がおるわい」とご満悦、缶コーヒーの一本でもくれるかもしれない。これだ、これなのだ。

私は今、孤独な人間のように暮らしている。どこに行くのもひとり。食べるのも飲むのもひとり。いつもぶつぶつ独り言。だが、これはふりをしているに過ぎないのだ。本当は孤独ではない。友達もたくさんいる。携帯のメッセージも読みきれないくらい。ただ、孤独な人間をだまし、その憎悪をかわすために、孤独の扮装をしているだけだ。

ぜったいに私は孤独ではない。本当に本当だ……

苦い文学

中国の光学的ノイズキャンセリング

多くのイヤホンやヘッドフォンに採用されているノイズキャンセリングとは、ノイズをデジタル処理によって消滅させる技術だ。

どのように消すかというと、ノイズの音波と真逆の音波を発生させ、ノイズを打ち消すのである。ゆえにキャンセリング(打ち消し)と呼ばれる。

このノイズキャンセリング技術は、もはや完成の域に達し、今度は光学的ノイズキャンセリングの時代が来るといわれている。

我々の目は、ある物体の形や色彩の光波を感覚することにより見るのであるが、光学的ノイズキャンセリングとは、特定の存在の光波に真逆の光波をぶつけることで、その光波を打ち消す、つまり視覚的にその存在を消滅させる技術である。

この技術が実現すれば、我々は目の前から特定の存在を自由に消すことができるようになる。いや、さながら透明人間のように自分の姿を消すことだって可能だ。

それどころか、軍事に応用すれば、目に見えない軍隊を作ることだってできる。このような軍があれば、プーチンも苦戦せずとも済んだことであろう。

現在、光学的ノイズキャンセリング研究にもっとも力を入れているのは中国だが、どうやらすでに実用化段階にある、と信ずべき証拠が図らずも公開された。

それは、先日の中国共産党大会の閉幕式でのことだ。胡錦濤前国家主席が突然、会場から連れ出されるように退出した場面をじっくりみてほしい。

習近平国家主席以外の出席者たちは、胡錦濤前国家主席が退出するというのに、挨拶も敬礼も挙手も目配せもウインクもなく、ただ、あらぬ方向を向いたり、手の先をじっと見つめたり、硬い顔つきで前を見据えたりしているではないか。まったくその姿が見えていないのだ。

習近平国家主席から発せられた真逆の光波により、胡錦濤の姿が光学的に消し去られていたのだと考えることができよう。

なお、我々に胡錦濤が見えるのは、国家主席のノイズキャンセリング機能が我々に届くほど強力ではないからである。今後の開発に期待したい。