ライブ

別れた三味線に

私は去年の 9 月から三味線を週 1 回、習いはじめた。三味線は買うと 30 万円近くになるから、レンタルだ。月に 5,000 円で貸してくれる。これプラス、保証金が 10,000 円だ。ただし、これはレンタル終了時に三味線に破損などの問題がなければ返ってくる。

三味線は非常にデリケートな楽器だ。ソフトケースも貸してくれたので、これに入れて持ち歩いていたが、人混みなどでは心配だ。また、常に片手で支えていなければならないので不便だ。

同じ三味線教室に親切な人がいて、三味線用の頑丈なケースを譲ってくれた。これで三味線をどこかにぶつけて破損する心配もなくなった。また、自立してくれるので、電車の中でも両手が使える。ソフトケースよりもずっと重く、また大きいので邪魔だが、三味線教室があるたびに持ち歩いているうちに慣れた。

三味線教室の区切りは春の発表会だ。この日のためにみんなで練習した。私は最初のうちは忙しくてろくに練習もできなかった。また、せっかく頑丈なケースを手に入れたのに、かえって出すのがおっくうになって、入れっぱなしの日々が続いた。だが、発表会が近づくにつれて焦りだした。それで、毎晩、少しずつ練習して、なんとか発表会までに最低限のレベルに達した。

そして、今日がその発表会だった。初舞台を終えると、私は三味線返却の準備を始めた。短い間だったが、私の相棒だった楽器だ。別れるのに感傷がないというわけではない。悲しみを感じながら、私は三味線を元のソフトケースに入れ、返却の手続きを行った。担当の人は三味線をケースから出して、状態をチェックすると、保証金 10,000 円を返してくれた。私の悲しみはすっかり喜びに変わった。

家に帰る途中、自分が三味線を持っていないのにふいに気がついて、どこかで置き忘れたのではないかと、何度もドキリとした。

苦い文学

何があったか彼女に言うのだ【盗難の証明(7)】

私はいったんホテルに戻り、9時半過ぎに警察署に行った。待合室には何人かの人々がいて、3脚ある椅子に空きはなかった。

横の部屋を覗き込むと、別の年配の男がいた。私は中に入り、事情を話した。パスポートの提示を求められたので渡す。男は名前などを確認した。

「どこで盗まれたのか?」

「X ホテルです」

「X ホテルというと、この近くの?」

「ええ」

「で、いくら?」

「20ドルと日本円で3万円です」

「3万円というと、いくらぐらい?」

私は通貨のアプリで換算してみせた。「650 ディナールぐらいです。それで、日本に帰って補償を請求するために盗難証明書が欲しいのです」

男は私に外で待つようにいった。待合室は椅子に空きがなかったので、カウンターのような台に寄りかかっていると、さっきの男が私に椅子を持ってきてくれた。

待合室の奥の壁にボードが貼ってあって、紛失証明書にいくら、失踪届にいくら、などと発行手数料が書いてあった。自分も必要なのだろうか、などと考えて待った。男がいる部屋で誰かがしきりに怒鳴っていた。警察24時だ。

さっきの年配の男が出てきて、私を呼んだ。男は待合室の奥の通路に私を案内し、右手にある扉を開けた。大きなデスクとソファが置かれた部屋があった。男はそのデスクの向こうに回り込み、椅子に座った。デスクの上にはアクリルのネームプレートがあった。デスクの前に椅子が置かれていて、私にそこに座るよう促した。私はこのときようやく彼が署長で、ここが署長室だということに気がついた。

年配の女も一緒に署長室に入ってきた。署長はその女もデスクの前のもうひとつの椅子に座らせた。

「この人は」と署長は私に言った。「X ホテルの支配人だ。何があったか彼女に言うのだ」

苦い文学

配膳ロボットに就労ビザはいらない

和風居酒屋「桜丸」が夕方の支度をしているとき、入管の調査官たちがやってきて、立入検査をすると宣言した。外国人を不法に就労させているとの通報があったというのだ。

日本人の店長は調理場にいた3人の外国人従業員をホールに呼び集めた。調査官たちはひとりひとり、パスポートと在留カードを確認していく。1人目、問題なし。2人目、問題なし。3人目……学生だ。調査官は店長にこの留学生の労働時間の記録を出させた。ざっとみたところ、労働時間の違反はなさそうだ。調査官は店長に聞いた。

「ほかに外国人はいませんか」

「ええ、います。いまちょっと外に……」

そのとき、調理場のほうから電子音のやさしいメロディが流れた。「あ、戻ってきました」と店長はその外国人従業員を呼んだ。

店の奥から配膳ロボットが出てきた。配膳ロボットはやさしく歌いながら直角に曲がると、店長のわきで停止した。

調査官は言った。「パスポートと在留カードを見せてください」

すると、配膳ロボットは180度回転して向きを変え、メロディを奏でながら店の奥へと進み出した。

調査官たちはいろめき立った。「逃がすな!」 だが、店長が言った。「待ってください。取りに行っているだけです」

しばらくすると、配膳ロボットはお盆にパスポートと在留カードを載せて戻ってきた。

「ご注文の品をお取りください」とやさしい声が告げると、調査官たちはひったくるように奪った。パスポートと在留カードからわかったのは N-KU98-JTR5(28歳、男)のビザ・在留期限ともに問題ないことだった。

そのとき、ひとりの調査官が叫んだ。「待て!」 パスポートと在留カードの写真と配膳ロボットの顔を鋭い目で見比べている。

別の調査員も直ちに確認に入った。配膳ロボットのプラスッチックの四角い頭部と黒くて丸いセンサーをじっとみつめる……「いや、同一人物だ」 つまり、この店には不法就労者はいなかったのだ。

調査員がパスポートと在留カードを配膳ロボットに返そうとすると、配膳ロボットはくるりと回転した。「お済みになったお皿はトレー置き場に置いてください」

調査員たちは「今後も不法就労には注意するように!」と店長に言い残して、外に出て行った。配膳ロボットはあいかわらず電子音のメロディをやさしく歌っていた。

苦い文学

富裕層への道

本屋に行くと「富裕層の生き方」「富裕層の哲学」について学ぶ本がたくさんある。「富裕層おすすめの本」もあれば「富裕層が決してしないこと」の本もある。

雑誌には富裕層の暮らしに関する情報、たとえば「富裕層が勧める習慣とは?」とか「富裕層の丁寧な暮らし」「富裕層の食卓」だのなんだのでいっぱいだ。

もちろんインターネットだって負けてはいない。「富裕層に近づくためのセミナー」「富裕層の投資指南オンラインサロン」なんてのはまともなほうで、富裕層がこっそり利用している占い師・風水師・開運グッズ・お守りであふれてる。

だが、注意してほしいのは、これら作者や講師やペテン師どもは富裕層ではなということだ。それが証拠に連中のプロフィールを読んでほしい。

「富裕層の顧客多数……」

「コンサルタントとして数多くの富裕層と交流……」

「富裕層からの信頼も厚く……」

つまり、連中は、富裕層の(自称)代理人だ。雲の上の存在である富裕層の秘密を私たちだけにこっそり打ち明けてくれるというわけだ。

しかし、連中の言ってることは本当に役に立つのだろうか? 富裕層でもないのに?

そもそも富裕層の猿真似をすれば富裕層になれるというのは、なんとも原始的な思考だ。トーテム思考、社会的ホメオパシーだ。

むしろ、こうした連中の商品に無駄金を使わないほうが、富裕層への近道ではないか。

もしも、この世に富裕層なるものがいればの話だが……それさえも私は疑っているのだ。

苦い文学

帰国者の計算

私が身元保証していたあるビルマ難民が、日本での認定を諦めて、やむなく帰国することになった。

だが、彼にはその帰国費用がなかった。そこで私に電話してきて言った。

「帰国費用がないので30万円貸してください。私が帰国したら、入管にある保証金30万が返還されるので、それを受け取ってください」

彼はもともと入管に収容されていた人で、私が彼の身元保証人をして外に出ることができたのである。保証金30万とは、その時に入管に収めた保証金のことで、これは仮放免許可を得た者が正規の滞在資格を得たり、あるいは帰国した時に、返還されることになっている。

入管の保証金を受け取るのは、身元保証人がする手続きなので、彼の言うこともまったく無理な話ではなかった。私はいろいろ考えた末、彼にお金を貸すことにした。それまでの彼との付き合いから、彼がいい加減なことをする人ではないと知っていたのである。

だが、それでもわたしは心配だった。もし彼が帰国する前にたとえば法を犯して入管に収容されたりすると、ペナルティとして保証金の一部が没収されることもある。

それどころか、ふと悪い気を起こして、彼が30万円を遊びに使ってしまうということだってありうる。保証金の返還は彼の帰国が前提となっているのだから、もし彼が帰国しないとなると、なかなか厄介なことになる。

そんなふうに気が気ではなかったが、ある日、ビルマから彼のメッセージが届いた。帰国したのだ。それから、数週間して、入管から連絡が入り、私はぶじ30万円を受け取った。

帰国する前に、彼は私に会いたがった。それで、駅で待ち合わせした。彼はやってくると、私に感謝を述べ、こんなことを言った。

「私が帰国することは誰にも言わないでください」

こういう秘密主義はビルマの人々の間ではしばしば見られる。なので、私は別に気にしなかった。だが、彼が日本を去った後、その意味が明らかになった。

彼は別のビルマ人からも金を貸りていたのであった。