小説

立ち仕事

ビルマ人の友人の病室は 8 階の大部屋の窓際にあった。すべてのベッドはカーテンで閉ざされていて、見舞いに来た私たちは、私たちの呼びかけにビルマ語で返事があるまで、彼がどこにいるかわからなかった。

彼は上半分を上げたベッドに両足を放り投げて横たわっていた。窓とベッドの間には車椅子が置かれていて、私はわずかな隙間に身を滑り込ませて、彼の傍に立ったが、他の 2 人のビルマ人はベッドの足元から内側に入ろうとしなかった。そのうちのひとりが気を使って私に車椅子に座るように勧めたが、私は断って立ったままでいた。

友人は、手術で膝の関節をシリコンにしたのだった。リハビリも大変だし、トイレも車椅子に乗せてもらわねばならないと、力ない声で言った。同行したビルマ人が「日本に来たビルマ人は、みんなこの膝の病気になりますよ」と言った。

居酒屋などで、何時間も立ちっぱなしで仕事をするからだそうだ。そういう彼も居酒屋でもう何十年も働いていた。

「へえ、それは大変ですね」

私がこう答えると、彼はハッとした顔をした。そして、私の膝の関節まですり減りだしたかのように、慌てて車椅子に座らせようとしたが、私は断った。

小説

新しいサービス(2)

Apple Store に駆け込むと、先ほどのスタッフが私を見つけた。私はどうやらひどい顔つきだったらしい。「どうされました」とスタッフが心配そうに尋ねてきた。

「いや、ちょっと戻ってきました。なんとなくね……」

「ああ、そうですか。お客様の中にはいらっしゃるのです。iPhone を持たずに外に出ると不安だと。ですので……」

「いえ、そんな、不安だなんて。することもないので……まあ店内で待たせてもらいますよ」

すると、スタッフはいかにも申し訳ないという顔つきをした。「ちょうどクリスマスシーズンでして、お客様が多数来店されております。お客様にとって不愉快なこともあろうかと思いますが……」

入り口のドアを見ると、次々と客が入ってくるのだった。製品が置いてあるどのテーブルも人だかりができていた。店内の中央にスツールがいくつか置かれていたが、空きなどひとつもないのだった。私は思わずため息をついてしまった。

「申し訳ありません。ですが、お客様にご提案があります。上階に、修理を待っているお客様専用の待合室がございます。そこでお待ちいただいてはどうでしょうか」

「そんなものがあるの。なら、そこにしますよ」

「では、そのようにいたします」とスタッフは iPad を取り出した。「えーと、お客様のお名前は」 私は名前を告げた。

「少し面倒で申し訳ないのですが、待合室の利用にあたり、手続きがあって」と iPad の画面を慣れた手つきで操作して、私の前に差し出した。

そこにはなにか規約類が書かれていた。いつものように読まずに下にスクロールし、「同意します」にチェックを入れる。

「ではご署名を」 画面に現れた空白欄に私は指で署名を書いた。汚い字になってしまったが、しょうがなかった。

「以上です。お2階にどうぞ」とスタッフは階段を指差した。

苦い文学

ベビーカーの戦争

今日、ベビーカーを電車に乗せるのを手伝ってあげた。

前輪が車両とホームの間に挟まって動かなくなっていたのだ。私は駆け寄ってベビーカーの下部を掴んで車内に引き入れた。

ベビーカーと押し手が入るとすぐにドアが閉まった。あぶないところだった。

「ありがとうございます」

「いえいえ」と言いながら目を向けた私はやや奇異な感じをもった。なぜなら、それは老婦人だったから。私はてっきり若い母親かと思い込んでいたのだ。だが、よくよく考えれば、孫を連れて出かけるのに、おかしなことなどなかった。老婦人はいかにも安心したという表情で言った。

「こんなに親切な人は初めて」

「そんなことはないですよ」

「ほんとよ。駅と電車ではイジワルばかり。みんなベビーカーを目の敵にして。怒鳴ったり、突き飛ばしたり、この間なんか、窓から放り投げようとしたり……」

ベビーカーにかぶさっている黒いシェードが小刻みに揺れた。中で赤ん坊が手を振り回しているようだった。

「まさか、そんなことが」 

ベビーカーの中から喃語が聞こえた。はぶっばーびっ。 

「うちのあの人だって、お兄さんみたいにベビーカーにやさしかったらこんなことにはならなかったのに」

シェードの揺れがますます激しくなった。おもちゃで遊んでいるのか、鈴の音が聞こえた。ばーばーはぶっーびーびっはばっー。

「あらあら」と老婦人がシェードをあげる。

そこにいたのは赤ん坊ではなかった。いや、赤ん坊だった。ただ、顔だけが年老いた男なのだった。はぶっーびっーばーはーびぶっばー。小さな手に握られたおもちゃがかわいい音を立てた。

「この人も」と老婦人は繰り返した。「ベビーカーにやさしくしていたらこんなことには……」

老婦人の夫は、皺だらけの口をとがらせて振るわせはじめた。ぶぶぶぶうううぶぶううぶうううー。それは次第に耐え難いほどの醜悪さに達した。

私は静かに頭を下げると、早足で隣の車両に逃げ込んだ。

働く男たちとベビーカーの間ではじまった戦争は、いまやもっとも凄惨で、もっとも異常な局面に達しているようだ。

苦い文学

覚醒する飛翔体(3)

右翼の大物政治家、丸角権蔵の秘書、笹木田美那は、その朝、関連団体から上がってきた資料に困惑していた。バーシーが議会へ華々しく登場する数時間前のことだ。

情報を提供した団体は、表向きは北朝鮮の人権問題を扱っていたが、裏では北朝鮮のスパイとこれに内通する政府関係者の炙り出しを任務としていた。

だが、「極秘」と記されたその資料はなんとも不可解な代物だった。それは二つのファイルからなっていた。ひとつは「ここ1ヶ月の北朝鮮のミサイルの発射状況」と題されたものだった。もっとも、これはすでに公にされた情報で、機密でもなんでもなかった。

問題はもう一つのファイルだ。これが機密情報なのに違いなかったが、何を意味しているのか、彼女にはまったくわからなかった。

それは、全国会議員のリストだった。

ざっと目を通した彼女は、そのうちおよそ二〇人ほどの議員に丸印がつけられているのを確認した。これら印づけられた議員の横の欄には、日付と時間、奇妙な数字の羅列がいくつも記されていた。

これはいったい何を意味するのか? これらの議員がもし北朝鮮のスパイだとしたら……彼女は恐ろしさに身を震わせた。

苦い文学

たった一度の人生

年老い、もはや死を待つばかりとなった私は、最近、死後の世界について研究をしている。

ついこの間も、書店で『魂の行方と転生の秘訣』という本を見つけた。目が飛び出るほどの値段の本であったが、思い切って買った。

その中に大いなる感銘を私に与えた個所がある。覚えとしてここに引用しておきたい。

(以下引用)人間の魂は、いくども生まれ変わりを繰り返す。そして、いくども異なった人生を送る。そのようにして、魂は人生という場で修練を積み、苦難を経験し、より優れた魂となっていくのである。

……だが、魂の世界には根本的な問題がある。考えてみたまえ、もし、すべての魂が、数知れぬ転生を経た結果、完全に優れた魂となってしまったら、もはや修練の場としての人生そのものは不要となってしまうのではないだろうか。それゆえ、この世界の維持には、いまだ修練を積んでいない新たな魂が絶えず必要とされるのである。

……その結果、やがて魂の世界では、魂の過剰という問題が発生した。この問題の解決策として導入された新システムが、魂の消滅である。そのプロセスはきわめて簡単である。魂自身に、その人生の舞台において、これ以上の転生を望むかどうかを決めさせるのである。

……ゆえに、転生を望む魂は「たった一度の人生だからすきなことをしよう」とか「たった一度の人生だ、思い切って買っちゃえ」などと、人生において口にしていけない。その言葉が口から発せられたと同時に、それはまるでパスワードのようひとつのシステムを発動させるのである。その言葉を口にした魂は、輪廻のプロセスから排除され、死と同時に消滅することが、不可逆的に定められる……(引用ここまで)

ああ、魂に関するこの高価な本を買うか買うまいか大いに迷った私は、「たった一度の人生だから」と独り言を言いながら購入を決意したのであった。