風刺・戯文

究極の言語化

この日本で生まれた史上最高の天才が、一冊の本を書き残した。それは 100 ページにも満たないソフトカバーの書物だが、天才がもてる能力をすべて注ぎ込み、この世界のすべてを言語化したのだった。

言語化とは人類が持つ最高の能力だ。この能力があれば、地頭がよくなり、人たらしになり、引き寄せの法則が発動しないことはない。天才は究極の言語化により、人類の地平を広げようとしたのだ。

この書を開き、読み始めた人がいる。それは驚くべき体験だった。1 ページ目を読むや否や、次々と腑に落ちることが生じ、思考の解像度もうなぎのぼりとなった。そして、そんな印象がページを繰るたびに段違いに深まっていくのだった。2 ページ目にはすぐやる人になった。3 ページ目を読むと嫌われる勇気が生じた。4 ページ目には富裕層への道が開かれた……。

だが、10 ページぐらいから、読者は異変を感じ始める。軽い眩暈が生じ、感覚が麻痺する。やがて意識の錯誤が始まる。ここで無理やり書物を取り上げなければ、読者は錯乱状態に陥り、二度と正気に戻れなくなる。

言語化とは太陽のようなものだ。その強烈な光が、精神の闇をくまなく吹き飛ばし、焼き尽くしてしまうのだ。

言語化の専門家は警告する。「これはただの自己啓発書ではありません。恐ろしい魔術の書なのです。最後まで読んだ者は、世界を破滅させる魔力を手に入れるでしょう……」

無限の力を秘めたその書は、今、国家機密として奥深い地下の施設で厳重に保管されている。

苦い文学

警察署までの道【盗難の証明(5)】

チュニスの大通りブルギバ通りには、警察官や兵士がたくさんいる。交通整理係もいれば、ものものしく武装した人もいる。警察署はどこか尋ねるにあたり、私はもっとも怖そうではない若い女性の警察官を選んだ(チュニジアでは女性の警察官もたくさん働いている)。

その女性警官は、私が泊まっていたホテルの前で交通整理にあたっていたのだが、私の問いに、指で警察署を示してみせた。大通りを入ってすぐのところにあるというのだ。警察署がこんなに近くにあるのに盗みとはヤツめ大胆な……とぶつぶつ言いながら、私は警察署に向かった。

警察署に足を踏み入れると、ベンチのある部屋があり、そこに一人のジャンパー姿の男が座っていた。そして、待合室の右手に扉のない部屋があった。覗き込むとパソコンの置かれた小さなデスクにやはりジャンパー姿の男が座って何やら作業をしていた。鋭い目つきで私を一瞥した。

「ハハーン」と私は思った。「これは韓国型だな」 つまり、チュニジアも韓国と同じく、警官は特別な任務がないかぎり、地味な色のジャンパーを着用しているもようだ。

私は部屋の入り口に立ちその男性に「お金を盗まれました」といった。すると、何も言わずに待合室の方を指す。ああ、まずはこっちの人にか、と思い、私は最初の部屋に戻り、そこに座っているジャンパーの男に声をかけた。「お金を盗まれたのですが……」

すると、その男は迷惑そうな顔をした。ただの待っている人だった。

苦い文学

個人の見解

ツイッター(現X)のプロフィールを見ると、こんなことを書いている人がいる。

「個人の見解であり、所属する組織とは関係ありません」

私はこうした言葉を見るといつも悲しくなる。なぜなら、自分には所属する組織がないことを思い出させるから。

そして、うらやましくもなる。まったく、個人の見解と所属する組織の2つも持っているなんて、ずるくないだろうか。しかも、それを例の青い有料認証マークみたいに、自慢げに書けるとは。

そもそもその組織だって「個人の見解であり、所属する組織・会社とは関係ありません」と、読み手に自分の所属する組織に意識を向けさせるぐらいなのだから、きっと名のあるところに違いない。

また、そんなふうに組織を持ち出すからには、きっとその組織でもそれなりの地位についているはずなのだ。

こう考えていくと、私はだんだん腹立たしくなってくる。なぜなら、「個人の見解であり、所属する組織・会社とは関係ありません」という人は、じつはこう言いたいのがみえみえだからだ。

「自分の見解は、とある名のある組織に所属している、地位高き人間様の意見だぞ!」

つまり、「関係ない」などといいつつ、所属している組織を自分の見解の箔づけにこっそりちゃっかり利用しているのだ。個人の見解でもなんでもなかったのだ!

これを怒らずにおれようか。私のように所属する組織のない人間がどんなに個人の意見を主張してもまともに相手にされないはずだ。

あまりにも悔しいので、無所属の個人の見解の持ち主を糾合して、「個人の見解」という組織を立ち上げて対抗措置としたい。

苦い文学

無念のマスク

今日からマスク着用は個人の判断に委ねられることになった。だが、だからといって、コロナがなくなったわけではない。私もそうだったが、道ゆく人はほとんどマスクをつけていた。

今日は駅で友人と待ち合わせしていたのだった。駅に着くと、友人が先に来ている。そして、私は驚いた。彼がマスクをつけていたのだ。

コロナが始まって以来、マスクの着用を断固として拒否してきた彼だというのにだ。

いったいどういう風の吹き回しだろうか。もしかしたら、その風が彼のところにまともな分別を運んできたのかもしれない。

「どうしたの。マスクなんかしちゃって」

「……」

「花粉症?」

「……」

「マスクをあんなに馬鹿にしてたじゃん」 こう言うと彼はいらだちを顔に浮かべながらマスクを外した。

彼が無言でそのまま立っているので、私もその隣に並んだ。せわしなく歩く人々は皆マスクをつけていて、彼のほうをチラチラ見て通り過ぎる。私は気がついた。人々の様子が違うのだ。かつて人々はマスクをつけていない彼を見ると、ギョッとしたり、怪しんだり、恐れたりしたものだった。だが、今日は誰もがニヤニヤしたり、憐れむような目つきなのだった。

そのうち隣からコソコソ声が聞こえてきた。「あー、やってるやってる」 見ると若者たちが私たちのほうを見て囁いていた。「解禁されたから調子に乗っちゃって!」「はしゃいじゃって!」

すると別のほうで「ミーハー!」とくすくす笑う声が聞こえた。

二人組が「真っ先に政府の言うこと聞てやんの! 真面目くんだ!」と言いながら通り過ぎていく。

「恥ずっ」 振り向くと女の子たちが腹を抱えて笑っていた……。

彼は無念至極といった顔つきで再びマスクをつけた。私はもうニヤニヤしどおしだったが、マスクがしっかり隠してくれた。

苦い文学

誰の意見を聞くべきか

2015年、アウンサンスーチーの国民民主連盟の政権が生まれ、何を言っても書いても自由な世の中になった。そして、ヤンゴンのあちこちで土地が値上がりし、どんどん新しい金持ちが生まれていた時、多くの人はビルマはもう変わった、民主化されたと思っていた。

だが、一部のビルマ人政治活動家や、ほとんどのビルマ少数民族(カチン人やカレン人など)は、ビルマは変わっていない、と訴え続けていた。

その根拠はいくつかあった。一つは、「2008年憲法」の存在だ。この憲法はいつでも軍が国権を奪うことができるとした剣呑なもので、この憲法がある限り、民主化などありえない、というのである。

もう一つは、ビルマ国内で相変わらず戦争が続いていたことだ。2015年には、ビルマ政府は一部の反政府勢力と停戦協定を結んだが、その後も北部では絶えず戦闘が続いていた。

他にもいくつか根拠はあった。それは、たとえば、経済的格差の大きさ、社会の不公正さ、法の支配の欠如、治安の悪さなどである。こうした特徴がある限り、ビルマが変わったなどととうてい言えなかったのだ。

しかし、日本政府はそうは思わなかった。「ミャンマーは民主化されたでしょ、帰りなさい」という言葉で、ほとんどすべての難民申請者を拒絶していた。

また、在日ビルマの人の中にも、新しいビルマでビジネスを始める人もいた。ビジネスの話が飛び交い、チャンスがあちこちに転がっているように思えた。

だが、2021年2月の軍のクーデターで、民主化もビジネスも自由も何もかも幻であることが明らかになった。

そして、我々はその時、本当は誰の意見を聞くべきだったのか、知ったのである。