旅・観察

今日は行けません【盗難の証明(6)】

気まずい思いをしながら、私は警察署内のベンチで待った。すると、さっきの警察が声をかけてきた。「30分後に戻ってこい」

私は外に出た。時間は7時45分だ。ラマダーン中なのでどこの喫茶店も開いていない。ハビブ・ブルギバ通りに出ると、中央の歩道に据えてあるベンチがあった。そこに座って、寒いなか待つことにする。

しかし、盗難証明書が出るまでどれくらいかかるのか。日本で紛失届をいくどか出したことがあるが、たいして時間はかからなかった。盗難届は日本でもそんなにすぐには終わらないだろうが、チュニジアではもっとかかりそうだ。だが、さっき警察署を見たかぎり、朝から人が詰めかけて列を作っているようではなかった。案外、すぐに終わるかもしれない。

私はその日の午前9時に人と会う約束があった。そこで、ベンチに座っている間に「10時に会うことにしたいのですが」とメッセージを送っておいた。

8時20分になった。私は再び警察署に行った。すると、今度は白いジャンパー姿の若い警察官が対応してくれた。事情を話すと、「なるほど。わかった。心配するな。1時間後に来い」

警察署を出た私は「すみません。今日は行けません」とメッセージを送った。

旅・観察

警察署までの道【盗難の証明(5)】

チュニスの大通りブルギバ通りには、警察官や兵士がたくさんいる。交通整理係もいれば、ものものしく武装した人もいる。警察署はどこか尋ねるにあたり、私はもっとも怖そうではない若い女性の警察官を選んだ(チュニジアでは女性の警察官もたくさん働いている)。

その女性警官は、私が泊まっていたホテルの前で交通整理にあたっていたのだが、私の問いに、指で警察署を示してみせた。大通りを入ってすぐのところにあるというのだ。警察署がこんなに近くにあるのに盗みとはヤツめ大胆な……とぶつぶつ言いながら、私は警察署に向かった。

警察署に足を踏み入れると、ベンチのある部屋があり、そこに一人のジャンパー姿の男が座っていた。そして、待合室の右手に扉のない部屋があった。覗き込むとパソコンの置かれた小さなデスクにやはりジャンパー姿の男が座って何やら作業をしていた。鋭い目つきで私を一瞥した。

「ハハーン」と私は思った。「これは韓国型だな」 つまり、チュニジアも韓国と同じく、警官は特別な任務がないかぎり、地味な色のジャンパーを着用しているもようだ。

私は部屋の入り口に立ちその男性に「お金を盗まれました」といった。すると、何も言わずに待合室の方を指す。ああ、まずはこっちの人にか、と思い、私は最初の部屋に戻り、そこに座っているジャンパーの男に声をかけた。「お金を盗まれたのですが……」

すると、その男は迷惑そうな顔をした。ただの待っている人だった。

旅・観察

盗難証明書【盗難の証明(4)】

泥棒への感謝の気持ちの只中にあって、海外旅行保険のことを思い出しえたのは僥倖であった。

「いや、泥棒を崇拝している場合ではない。盗難の補償があるかどうか確かめねば」

海外に行くときは必ず一般的な保険に入るようにしているが、これまでスーツケース破損の補償を受けた以外、使ったことがなかったので、盗難が対象になるかもわからなかった。

調べてみると、24時間ネット通話対応のコールセンターがあった。電話してみると、次のようなことを言われた。

「通貨盗難の場合は3万円を上限に補償の対象だが、盗難証明書が必要である」

盗難証明書は警察でもらえるというが、私はそんな手続きをしたことがない。というか、どこに警察署があるのかもわからない。いずれにせよ、もう夜遅いので警察に行くのは明日の朝だ。

そして、次の朝、私はスーツケースを持ってホテルを出た。もとからこの日に別のホテルに移る予定だったからだが、たとえそうでなくても、私はもう滞在したくはなかった。

チェックアウトのさいに、ホテルの人がもう一度「誰も部屋に入れない」と繰り返した。私はもう盗難証明書のことで頭がいっぱいで、それはもうどうでもいいように思えた。

旅・観察

泥棒への感謝【盗難の証明(3)】

はじめは20ドル札がないのに気がついた。おかしいと思って、改めて手持ちの現金を数えてみると、3万円が抜き取られていた。

20ドル札だけならば落とす不注意もあるかもしれないが、3万円の場合は無理だ。そこで、盗まれたのだと私は結論づけた。

お金は部屋のスーツケースに入れておいたから、誰かが部屋に入ったのだ。そして、現金が消えたことに気がついたその日の午前、私は数時間出かけていた。その時間に入ることができるのはホテルの関係者だけだ(チュニジアのホテル関係者のために弁じておくとこんなことは今までなかった)。

そこで私はまずフロントに行き、盗難があったことを告げた。フロントの男性は「部屋に誰か入ることなどない」という案の定の返事だったが、とにかく言っておくことに意味がある。

それから、私はひどくがっかりして過ごした。いつもは鍵をかけておくスーツケースを、開けっぱなしで外出してしまったことを悔やんだ(もっとも、後になって私はスーツケースが壊されていることにも気がついた)。

ああ、3万円あれば何ができただろう! 私はその日の午後、クヨクヨと考え続けた。

高田馬場の決闘で知られる堀部安兵衛は、江戸で巾着切りにいつの間にか大金を抜き取られらとき、これが腕に覚えのある剣豪とでくわしたのであれば、危険な試合に発展したことだろうが、巾着切りの名人でよかった、と感謝したというが、私も心痛のあまりついにそんな境地にまで至ってしまった。

泥棒よ、ありがとう! お金を全部取らずにいてくれて! パスポートも手付かずのままにしてくれて! 見てください、私はこんなに豊かです!

損失を直視したくないあまり、泥棒を称えるという心的機制まで働き出したのだ。だが、そのとき私は海外旅行保険のことを思い出した。

旅・観察

新しいホテルで【盗難の証明(2)】

チュニス滞在のさいの定宿であった Grand Hotel de France が閉鎖中だったので、私はとりあえずその日の宿を探す必要に迫られた。

そこで、少し離れたところにある Hotel Carlton に行った。このホテルは、チュニスの大通り、ブルギバ通り沿いにあって、ロケーションもいいが、200 ディナール(約1万円)と高めだ。

去年の夏、私は図らずもこのホテルで一週間過ごすことになった。初めは一泊だけの予約だったのだが、熱を出して動けなくなり、このホテルの一室でひとり苦しんだ。これはつらい思い出だが、このホテルでなければもっと悲惨な思いをしていたかもしれない。そういう意味では「恩」があるが、行ってみたら満室だった。

ブルギバ通り沿いにはたくさんホテルがあるが、安いホテルはそれほど多くはない。Hotel Carlton のすぐ隣にもうひとつホテルがあって、見た目はパッとしないが、安そうだった。行ってみると空室があるとのことで、そこに決めた。一泊 100 ディナール(約5千円)だ。

当初は、チュニスから南部に行く予定だったので、長くて3泊程度のつもりだったが、予定が変わって、結局、このホテルに11連泊することになった。そして、最後の夜に3万円と20ドルを盗まれた。

旅・観察

Grand Hotel de France【盗難の証明(1)】

チュニジアのチュニスに滞在するときの私の定宿は Grand Hotel de France だ。メディーナと呼ばれる旧市街の入り口、フランス門の近くにある。

古いホテルで、フランス時代の面影がある。小さなエレベーターもあって、昔の映画に出てくるような網戸をがちゃんと閉めるタイプのものだった(その後、普通の箱型になった)。

部屋は小さいが、清潔だ。薄暗いが、中庭に面したバルコニーを開けると、光が差し込む。冷蔵庫もないし、ネットも部屋によっては繋がらないが、とにかく安全なのがいい。不愉快な思いをしたことは一度もない。

シャワー・トイレ付きの部屋と、共同の部屋がある。運悪く、共同の部屋しか空いていないときは、ひとまずそこに泊まって、空き次第、シャワー・トイレ付きの部屋に変えてもらったものだった。

値段は、一泊 55 ディナール(2600円)。チュニスで外国人観光客が泊まるようなホテルは、最低でも 100 ディナールはするから、どちらかというと現地の人向けの宿だ。地方から来た人かアルジェリア人が多いようだった。

このホテルはネットでは予約できないようだから、私はいきなり訪れる。満室の時もあるが、たいてい部屋が空いている。そんなわけで、今年の2月末にチュニスを訪問したさい、予約もなしに、スーツケースを引っ張ってホテルに行った。

そして、閉館中なのを知ったのだった。

旅・観察

チョンチャンを守りたい

もう25年以上前のことになるが、私がはじめて北アフリカのチュニジアに行ったとき、街なかで「チョンチャン!」とか「シャキション!」とか、よく声をかけられたものだった。

これはジャッキー・チェンに由来する言葉のようで、中には、カンフーの真似をする人もいた。なんにせよ、一部の人々はアジア人と見るとこの言葉を発せずにはいられないのだった。

これが私には非常に不愉快だった。このような形で人間の尊厳を傷つけてはいけないと思った。そして、この振る舞いをやめさせることのできない自分の無力さに苦しんだ。

そして、今、私はチュニジアにいる。昔ほどではないが、今でも「チョンチャン!」とすれ違いぎわに言ってくる人がいる。となると、かつてはいらだたしかったこの奇習が、今や私にある種の感慨を抱かせるにいたった。

これら一部のチュニジア人たちは、少なくとも30年近くのあいだ、この「チョンチャン」をひっそりと守り続けているのだ。

この歳月のあいだ、世界ではさまざまな出来事が起きた。チュニジアもまた、2010年にジャスミン革命という大きな変革を経験している。「チョンチャン」は激動の現代史を生き延びてきたのだ。

それにしても「チョンチャン」はどのように伝承されてきたのだろうか。臨終の床で父親が「息子よ、アジア人を見たら、私がしたようにチョンチャンと必ずひとつやってくれよな……それが遺言じゃ……」 そんなふうに父から息子へ、そしてその息子が父となり、その息子へ、と綿々と伝えられてきた可能性も否定できない。

こうなると、もはやひとつの文化ではないだろうか。チョンチャン文化だ。

今後、ますます東西の交流が深まると、自ずとチュニジアの人々もアジア人に慣れ、街で見かけても珍しく思うこともなくなっていくことだろう。

そうなると心配なのが、チョンチャン文化の行末だ。いずれ消滅ということにもなりかねない。若い世代の中には、ジャッキー・チェンの映画すら知らずに「チョンチャン!」とやっている者もいると聞く。まさにチョンチャン文化のアイデンティティ・クライシスだ。

私はこのチョンチャン文化を守りたい。日本とチュニジアの友好のためにも保存会を立ち上げ、自らチュニジアの街頭に立ち、アジア人初のチョンチャン実践者として、アジア人にチョンチャンしたいと思っている。

旅・観察

アウシュヴィッツ訪問(おわり)

ツアーは、まずはじめにアウシュヴィッツ収容所内をまわる。それから、博物館の外に出て、シャトルバスに乗り、10分ほどの距離にあるビルケナウ収容所を見学する。その後、再びバスで博物館の入り口に戻って終了・解散となる。全部で3時間強だ。けっこう疲れる。

私の見るかぎり、博物館には3つの書店があった。ひとつは私が最初にガイドブックを買ったところで、入り口入ってすぐのところにある。2つ目はアウシュヴィッツ収容所の出口にある。そして、3つ目はビルケナウ収容所の入り口にあった。

単独行動はしにくいでの、私はツアーのあいだじゅう、本屋をゆっくり見ることはできなかった。そこで、ツアーが解散したのち、再び入場して、最初の本屋に行くことにした。

この再入場が面倒くさかった。再入場はエントリー・パスがあれば無料でできるが、博物館の外にあるチケット売り場で入場券をもらわなければならない。そして、このチケット売り場には、事前にネット予約せずにきた人たちが並んでいるのだ。

私は事前に予約しなければ入れないと書いたが、当日いきなり行っても入ることはできる。その場合、空きのあるツアーに参加しなければならない。だが、そうしたツアーは午後の遅い時間にしか残っていないので、それまで少なくとも2〜3時間は博物館の外で待たねばならない(ネットで見たときは午前のポーランド語とロシア語のツアーしか残っていなかったが、チケット売り場には午後に英語のツアーもあった)。

また、ネットの情報によれば、すべてのツアーが終わった後に個人で自由に入ることができるという。たとえそうだとしても、それまでの時間、外で時間を潰さなくてはならないようだ。

さて、私は列に並び、入場券をもらい、再び博物館の中に入った。本屋には、ポーランド語、英語、ドイツ語、フランス語などの西洋諸語に加えて、日本語、韓国語などの書籍が売られていたが、当然ながらポーランド語、英語がもっとも多い。私は博物館が出版している『アウシュヴィッツ:写真で見る歴史』(英語版)という大きくて重い本を買った。

さて、帰りのバスは、クラクフからのバスが着いたバス停から出る。そのすぐ隣、博物館寄りのバス停が、ビルケナウ収容所を往復するシャトルバスが出るところだ。私はクラクフ行きの時刻表をシャトルバスのバス停で探し、ないので困っていたが、それはクラクフ行きのバス停のところにあった。

午後1時半ごろにバスが来て、クラクフに戻った。帰りは交通事情のせいか、2時間かかった。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館の内部については書かない。また写真もあげない。予約専門サイトでは、オンラインツアーの予約もできる(https://visit.auschwitz.org/)。

(画像はシャトルバス)

旅・観察

アウシュヴィッツ訪問(6)

館内に入場してそのまま歩いていくと、奥の突き当たりにベンチの並ぶ待合所がある。電光掲示板があり、ツアーのスケジュールが並んでいる。そこでツアーが始まるのを待つ。その間、団体は団体でどんどん中へと進んでいく。

待つ前にしなくてはならないことがある。言語別のシールをもらうのだ。これは待合所の向かいにある(つまり博物館の入り口に背を向けた)インフォメーション・カウンターで、パスを提示するともらえる。そのシールがツアーの目印になっている。ポーランド語は赤のシール、英語は白だった。それを胸などに貼っつける。

また、私は待っているあいだに、セキュリティゲートを通ったところにある書店に行き、公式の日本語ガイド(『追悼の場 AUSCHWITZ-BIRKENAU 案内書』)を買っておいた。ポーランド語の解説がわからないので、せめてガイドで情報を補おうというハラだ。

グループはポーランド人だけかというとそうでもなかった。若い日本人たちもいた。私と同じく前日に予約した愚か者たちのようだった。

時間が来ると、ツアーの解説者が、言語名の記されたボードを持ってやって来る。これがツアーの始まりだ。待合所にある入り口を通って、地下のホールに降りる。そこで、レシーバー付きのヘッドフォンが渡される。これを通じて解説者の話が耳に直に入ってくるのだ。

私たちは解説者を囲みながら、アウシュヴィッツへと入っていく。同行した日本人は、ポーランドの解説者が話しているあいだ、後のほうでぺちゃくちゃ喋っていた。まったく愚かな連中だ。だが、私はといえば、ポーランド語がわからないのがバレないように解説者の近くにいたりした。わかったという感じでしきりにうなずいたりして。

後をついていくにも、他のポーランド人をさしおいて、従順な弟子のようにその真後ろにピッタリくっついていった。解説者はポーランド語で話しながらどんどん進んでいく。後ろにいるのが一言もわからない愚か者だとは、夢にも思わなかったろう。

(画像は、インフォメーション・カウンター)

旅・観察

アウシュヴィッツ訪問(5)

バスは予定通り1時間半後にアウシュヴィッツ博物館に到着した。博物館の前は大きなパーキングエリアになっていて、ツアーバスが何台も止まっている。もうたくさんの人が集まっている。

トイレとロッカーのある建物があった。博物館には大きな荷物は持ち込めないので、ここで預けなくてはならない。 事前に送られてきたメールには 33 センチ x 25 センチ x 15 センチより大きな荷物はダメだと書いてあった。

これで大きさをイメージできる人はいいが、私にはわからない。自分の普通の大きさのリュックが大丈夫なのかわからず、周りの人の荷物をみて、一喜一憂する。結局は問題はなかった。

さて、個人の参加者はどこでどうすればいいかもわからない。メールには「博物館のレセプション・ビルに、集合時間30分前に入るように」と書かれている。しかし、博物館の入り口は人が並んでいて簡単には入れそうにない。

そこで、外にいるスタッフの人に聞くと、どんどん入って中で待ってくださいという。博物館の入り口に集っている人は、おそらく団体で、団体なりの理由によって待っているだけのもようだ。

そこで、博物館の中に入っていく。セキュリティ・チェックがあり、そこの人にメールで送られてきたエントリー・パスを見せ、入場した。

(画像はアウシュビッツ行きのバス)