苦い文学

送金者

明け方、まだ寒い時間に街を歩いていたら、なんとも不思議な人を見かけた。

それは垢で汚れた服を着た年老いた男で、ひとりでなにやら楽しげにキャッキャキャッキャ声をあげているのだった。近づくとこんなことを言っているのが聞こえた。

「さあさあ、みんなもうやめなさい。おじさんはみんなが立派な大人になってくれれば、それでもう満足なんだよ!」

はじめは頭のおかしい人かと思ったが、どこか違うのだ。幸せそうで、みている私までが楽しくなった。私は我慢できずに話しかけた。

「失礼ですが、いったいなにをしてらっしゃるのですか? なにがそんなに楽しくていらっしゃるのでしょうか?」

「これはとんだところを見られてしまいました。なに、お金を送金しているだけです」

「送金といいますと?」

「大谷翔平選手の口座にアクセスする権利をいただきまして、そのお金を送金しているのです」

「えっ、あの大谷選手の……。もしかしてあなたが?」

「あっ、ほんとじゃないですよ。もし大谷翔平選手の口座から自由に送金できるとしたら誰に送金しようかと考えて楽しんでいるのです」

「なんとすばらしい趣味をお持ちのことでしょうか」

「ええ、さっきも貧困家庭の子どもたちにいっせいに送金して、喜んだ子どもたちに囲まれていたところです。まったくこのイタズラ小僧たちときたら私を胴上げさせてほしいと言って聞かないのです!」と彼は周りをぐるりと見回して、見えない子どもたちに話しかけた。

「さあ、おじさんは忙しいんだ。行った行った。自由に楽しく生きるんだよ!」

私はすっかり感心してしまった。「うらやましいかぎりです。不躾なお願いで申し訳ありませんが、この私にも送金していただくことなど可能でしょうか」

「もちろんですとも! いかほどあれば?」

「いえ、そんな、いくらでも……」と私は口ごもり、私たちのあいだにしばしの沈黙が訪れた。

そのとき、老人の腹の虫が鳴いた。いや鳴くどころではない。咆哮したのだった。私は失礼を承知で言った。

「ずいぶんと空腹のご様子ですが」

「ええ! 送金するのに忙しくて、ここ数日なにも食べていないのです」

私は千円札を取り出すと、老人に押しつけた。喜びのあまり老人はこう言わずにはおれなかった。

「この千円には一億円の価値がありますよ! さっそく一億円送金させていただきました」

「もう!」

「礼には及びませんよ。さあさあ、銀行に行って残高を確認してください!」

私たちは別れた。世界は実はこんなにもすばらしい場所だったのだ。