苦い文学

八重洲の髭剃り屋

東京駅の八重洲の地下街の一角で、髭剃り屋を営んでいる貧しい男がいた。髭を剃り忘れたあわてんぼうの紳士たちのために、彼は朝から晩まで働いていたのだった。

ある夜、一日の仕事を終えて帰り支度をしていると、上品な老人がやってきて、こう言った。

「すまないが、ひとつ仕事をお願いできないかね」

髭剃り屋は老人の顔が非の打ちどころなく剃られているのを見ながら答えた。「もう店じまいですし、私にできることはないようです」

「いや、私ではないのだ。それに店じまいするところならなおさら都合が良い。今からおいで願えないかね」

「こっちから出向くというのならば、割り増しをいただきますよ」と髭剃り屋は引き受けることにした。

老人は彼についてくるようにいうと、歩き始めた。彼は八重洲の地下を熟知しているようで、いつの間にか、髭剃り屋が見たこともないようなほの暗い地下道を進んでいるのだった。まるで迷路のような道のりで、どれくらい歩いたかわからないが、ある暗い地点で老人は壁に手を当てて操作をした。すると、壁が静かに割れ、光が差した。その中を見た髭剃り屋は思わず驚きの声を上げた。大きな部屋が広がっていたからだ。その部屋は美しく飾られ、まばゆく輝く照明がぶら下がっていた。

そして、部屋のソファに、ひとりの立派な男性が座っていた。髭剃り屋がおっかなびっくり足を踏み入れると、男性はやさしく微笑んだ。その顔には控えめな口髭があった。

「私の髭を剃り落としてほしいのだ」とその男性はさっそく告げたが、髭剃り屋はその表情、声、口調にいわく言いがたい悲しさが潜んでいるのを感じた。

「承知いたしました」と髭剃り屋は答えた。「ですが、どうしてお剃りになろうだなんて。とても似合っていらっしゃるのに」 

そう言いながら髭剃り屋が準備を始めると、客は静かな声で語り出した。自分には立派な兄がいて、その兄と区別するために髭を生やしてきたこと、だが、その髭のせいで、縁もゆかりもない人々から不当な非難や中傷を浴びていること、そして、自分と家族を守るために髭を剃る決意を固めたこと……。

髭剃り屋の支度が終わり、美しく磨がれたナイフがその手に握られた。

客はふるえる声で言った。「さあ、きれいさっぱりやってください」

髭剃り屋はナイフを顔に近づけたが、「やっぱりやめておきましょう」と言ってナイフを置いた。

「私は剃れと言われたら剃りますが、お客さまは心では剃りたくないとお考えのようです。それでは私は気持ちよく仕事をすることができません」

男性は紅潮した顔で見返した。

「それに」と髭剃り屋は続けた。「どんなに意地悪を言う人がいても、きっと応援してくれる人はいますよ。いや、味方はたくさんいるんです。たとえば、この私です」

髭剃り屋は道具をしまうと、一礼して部屋から出た。髭剃り屋は再び老人に連れられて地下迷路を歩き回り、馴染みのある八重洲の地下街に戻ることができた。

老人はいくばくかの手間賃を渡そうとしたが、髭剃り屋は、これがまた無駄遣いだとバッシングの種になってはと、気持ちだけ受け取ることにした。