苦い文学

背中の盗難

帰宅した彼は、背中がないのに気がついた。普通、背中を落とす人はいないから、どこかで盗まれたにちがいない。そういえば、駅前の人混みを歩いているとき、誰かに背中を撫でられたような気がした。きっとそのとき盗まれたのだ。

彼は警察に行った。盗難届を出したい旨を伝えると「背中が盗まれた?」などと取り合ってくれない。しかたなく彼は服を脱ぎ、元背中があった場所を見せた。

「見事に盗まれてますね」と警察は感心し、盗難届を受け取ってくれた。

彼はそそくさと家に帰った。恥ずかしく惨めで、妻子にも隠れるように自分の部屋に入った。家長としての威厳を示すのは背中なしには無理だった。

灯りを消してベッドに横になる。はじめは仰向けだったが、だんだん失われた背中部分が崩れていくような不安な感覚がしてきた。

腹ばいになると、不安な気持ちは消えた。身をよじって毛布にくるまる。そのままじっとしていると暖かく安らいだ気持ちになった。やがて彼は眠りに落ちた。

夢の中では、立派な甲羅を身につけて、海を自在に泳いでいた。