苦い文学

たぬきと人のやさしさ

千葉県木更津市の證誠寺は名曲『証城寺の狸囃子』の由来の地として知られる。

暇つぶしに彼がその寺を訪れると、ひとりの老人が手招きした。そして小声で言うのだ。

「ちょうどよいところにおいでになりました。今からたぬきが化けるところです」

そう言って、身を屈めて藪の向こうを見つめるのだった。彼も興味を感じて老人の隣に屈んだ。藪の向こうには小さな空き地があって、見ていると一匹のたぬきが現れた。

たぬきは枯れ葉を頭に乗せて一回転した。すると、なんとなく女性の形をしたものが出現した。老人は言った。

「うふふ、あれで化けたつもりでいるのです」

すると老人は藪をガサガサとゆすって「こらー」と叫んだ。その女の形をしたものはたちまちたぬきに戻り、どこかに逃げていった。

老人が立ち上がったので彼も立った。

「あれが化けだぬきですか」

「ええ、女性に化けて人々をだまそうとしてたのです。それで、たぬきが化けたら追い払うべし、というのがこの寺の決まりでして」

「といいますと、このお寺の方でしょうか……」

「ええ。代々たぬきを追い払っているものです」

二人は寺の門のところまで来ていた。彼は好奇心を刺激され、思わずこう老人に言った。「もう少しお話をお聞きしてもよいですか。化けるたぬきなど初めて見たので」

「喜んで」

寺の近くに喫茶店があった。そこで彼は老人の話を聞いた。

老人がいうには、たぬきの化ける能力などあの程度のものなのだという。

「しかし、それでは人がだまされることなどありえませんね」

「そうなのです。昔からたぬきが人を化かすなどといいますが、あれは嘘なのです。というか、むしろ私たち人間がたぬきを化かしているのです」

「といいますと」

「つまり、たぬきに騙されたフリをしているのです。かわいそうですからね。一生懸命化けているのですから」

「では、たぬきにだまされて、馬糞を食べたなんて話がありますが、あれも」

「ええ、そうです。実際たぬきには馬糞を饅頭そっくりにするなんてことはできませんよ。すべて人間が化かされたフリをしてあげているのです」

「でも、いったい、どうしてそんなことを」

老人は少し考えて答えた。「まあ、人間のやさしさではないでしょうか。哀れに感じてしまうのですよ」

「人間のやさしさが化けだぬきの伝説を生んだということですね」

老人は重々しくうなずいて、コーヒーを啜った。

彼もコーヒーを啜ったが、のちにそれが馬の小便であることがわかった。