苦い文学

秘密の救護活動

コロナが収束して電車も再び混み合うようになった。それだけでも不快なのに、最近の蒸し暑さだ。昨日の朝、満員電車の中で立っていた私は、不意に気分が悪くなり、ふらふらしだした。

倒れる……と思った瞬間、いくつもの手が私を支えた。かすんだ目で見ると、数人の男が周りにいるのが見えた。ひとりが小声で囁いた。

「体の力を抜くのだ」

朦朧としながら私はその言葉に従った。「そうだ、そのままでいい」 男たちは私が倒れないように支えているのだった。

男は私の鼻にハンカチを押し付けた。爽やかな香りが鼻孔をくすぐり、私はやや気分が落ち着いた。

やがて電車は駅に停まった。ドアが開く。その駅ではいつも誰も降りないので車内も動きはない。そのとき、駅員がドアの外に立ち車両の中を覗き込んだ。

男たちが緊張するのがわかった。先ほどの男が私の背に何か固いものを押し当ててささやいた。

「命が惜しくなければ静かにしているんだ」

駅員がジロジロと見ているうちに、ドアが閉まり、電車が動き出した。男たちの緊張が緩むのがわかった。男が言った。

「すまなかった。こうするしかなかったのだ」

「でも、いったいなんのために?」 やや元気を取り戻していた私は尋ねた。

「駅員の中には体調不良者をめざとく見つけて、救護活動をしたがる一派がいるのだ。もし君がそんな連中に見つかっていたら、救護活動で電車が遅れていただろう。そうなったらこの電車の乗客全員が遅刻だ! 私たちは駅員が見つける前に電車内の体調不良者の救護を行う『電車の遅延を許さぬ乗客たち』のメンバーだ」

「そうですか。そんな団体が……うっ!」 私は急に胸のむかつきを感じ、震えが止まらなくなった。

男は言った。「いかん、吐くぞ!」

「吐いたら停車まちがいなしだ!」と別の男。「これしかない!」と男は自分の手提げを開き、私の顔に差し出した。

私はその中に思う存分吐いた。

「ふーっ」 男たちは安堵の息をついた。私も吐いたせいでだいぶ気分が楽になった。

しばらくして電車は駅に停車した。どっと人々が降りる。押し出された私は、これら英雄的な男たちの姿を一目見ようと振り向いた。

そこにはスーツ姿の普通の会社員たちが立っているだけだった。

どっと電車に乗り込む人々に隠されるその瞬間、パンパンに膨らんだ手提げをぶら下げたおじさんが、私にウインクしたような気がした。