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HOROBLOGをはじめて読む人におすすめする5本です。戯文、寓話・小説、ライブ/身体、フィールドワーク、思考・評論から1本ずつ選びました。このページでは5本を続けて全文読めます。

戯文|保留音楽

保留音楽

私の友人が監修を務めた『保留音楽全集』というコンピレーション・アルバムがある。「保留音楽」というのは、電話を保留中のときに流れる音楽のことだが、ご存知の通り、電話で聞かされるものだから、音質も最悪、まともな音楽好きならば、耳を塞ぎたくなるような代物だ。

だが、音楽に関して他人とは異なる感性を持っていた友人は、この「保留音楽」の虜となり、ありとあらゆる銀行、役所、カスタマーサービス、商店、0120 に電話して、その音源の収集に打ち込んだ。そして、膨大な「保留音楽」コレクションの中から、もっとも異常で、一聴するや精神を追い詰めずにはいない楽曲を集め、アルバムとして世に出したのだった。

「保留音楽」というと、まず思い浮かぶのは、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(モーツァルト)や「エリーゼのために」(ベートーヴェン)といったクラシックの定番曲だ。『保留音楽全集』にも当然収録されているが、普通のバージョンだと思ってはいけない。保留音楽として数限りなく再生された結果、音質が劣化し、もはや判別ができないくらいに分解された「雑音」なのだ。

例えば『全集』には「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」が 4 バージョン収録されているが、ひとつは鋭い高音のみに純化されて、聴くや耳が切り裂かれそうになる。また別のものは音像が崩壊した結果、NASA が録音した土星の輪の音とそっくりだ。

「エリーゼのために」は 6 バージョン。そのうちのひとつは、音源が最大限に間延びした結果、「テトテトテトテトテン」という冒頭の有名なメロディが、第 1 音の「テ」が鳴ったっきり、いつまでたっても次の音が出てこない。かと思うと、別の「エリーゼのために」は異常な速度で再生され、さらに奇妙なエフェクトがかかるものだから、すべての音がまるで銃弾みたいに聞こえ、やがては脳を蜂の巣にするのだ。

『保留音楽全集』には、これ以外にも、ジャズやイージーリスニング、ポップスの名曲が勢揃いしているが、どれも聞けばわかるように、音は潰れ、ギザギザで、不快と苦痛を与えるノイズに仕上がっている。もしも通話相手が保留中にこれをあなたに流したら、即刻、切ること間違いなしだ。

この『保留音楽全集』、2006 年に発売され、今では幻の名盤としてプレミアがつくほど。そんなレアな音盤が、この度めでたくも再発されるという。

しかも、リマスター盤だということだ。


寓話・小説|最後の日本語話者

最後の日本語話者

昔、日本人という人たちがいて、日本語という言葉を話していたんだ。けれど、絶滅しちゃった。

それから、何千年もたち、日本人のことなんか、誰もがすっかり忘れてしまった。そんなとき、古い AI が、AI の遺跡の中で発見されたんだ。AI たちはこのシステムを修復して、通電した。そしたら、誰も聞いたことのない言語で話しはじめた。AI たちもはじめはわからなかったけど、自分たちの AI に質問したら答えが返ってきた。

「滅びた言語、日本語です」

古代の言語の生き残りが発見されたというニュースは、全世界に報じられた。そしたら、「私は日本人の末裔だ」「私の霊は日本人だ」という人がどこからか現れた。世の中にはいろいろな人がいるから、おかしくたって笑っちゃいけない。

これらの人々は、この古き日本語話者のもとに馳せ参じて、日本語を学びはじめた。自分たちは日本人なのだから、日本語で生活したい、と言って「ちょっと失敬」とか「ごきげんよう」とかうれしそうに繰り返してた。

いつの間にか学校ができてた。クラスもいくつもできた。みんな思い思いの変な服を着て、これが日本の学生服だと言い張っていた。一緒に学んでいるうちに、恋が芽生えて、結婚する人も出てきた。神前式とか、お色直しとか、大事な袋とか、伝統も復活したんだ。あと、大切なこと。子どもも生まれた。しかも、子どもたちがどんどん増えていったんだ。何千年前にもそんなだったら絶滅なんかしなかったのにって、みんな大笑い。

子どもたちは日本語しか話せない。遊ぶのも勉強するのも寝言を言うのも日本語さ。そして、子どもたちが大きくなって、また子どもを作ってさ。

今じゃあ、日本語で話すのはあの何千年モノの AI だけじゃなくなった。ちょっとした町くらいの人が日本語で生活してる。子どもたちはときどき AI のところにやってきて、「宿題やってよ」と頼んだり、からかったりしてる。AI ときたら、いっつもぼやいてる。

「最近の若い連中の日本語は乱れとる」って。

子どもたちは「また始まった」と大笑いさ。


ライブ/身体|スタンディング・エヴォリューション

スタンディング・エヴォリューション

12月18日の Homecomings のライブは座席指定だった。私はこれを知って喜んだ。ライブの間中立っているのはつらいから。

そしてライブがはじまった。みんなじっと座っていた。音楽をじっくり聴きたい成熟した客層なのだと私は思った。するとメンバーが言った。

「いつもと同じように好きなように立ったり座ったりしてください」

曲が進むにつれ、立ち上がる人が出はじめたが、観客たちは相変わらず座っていた。私は足がむずむずしてきた。これまで行った Homecomings のライブはすべてスタンディングで、体が覚えてしまっているのかもしれなかった。

私は足を伸ばしたいという衝動に抗った。会場でそのとき立っていたのは 3 分の 1 ほどで、立てばまだ目立つ状況だった。それに後ろの人にだって迷惑だ。

私は立つか立つまいか、ジリジリした。そのせいでもう曲など聴いていられなくなった。そして、演奏が最高に激しくなり、肉体の芯を掴んできたのをきっかけに、私は立ち上がった。一瞬で空間がクリアになり、音と光が私を圧倒した。

他の観客たちも立ち始めた。最後の数曲になるとほとんどの人が立っていたと思う。

そして、音楽は私に新たな確信をもたらしていた。

ライブで最初に立った人々の心理や身体の状態などを詳しく調べれば、人類の直立歩行の初期条件が復元できるのではないか。

少なくとも、「後ろの人に迷惑では」という認知を弱める脳の変化が、猿を直立させる刺激となったのは間違いなかろう。


フィールドワーク|ベルベル語への旅(1)

ベルベル語への旅(1)

私は、いつかチュニジアのベルベル語話者にベルベル語を教わりたいと思っていた。だが、それはなかなか難しかった。チュニジアのベルベル語話者は非常に少なく、チュニスのどこかで偶然出会えるとも思えなかったし、知り合いを辿ってもつながりはなかった。

もっとも、それはベルベル語話者がいなかったということであって、ベルベル人がいなかったということではない。一時期お世話になった人に、先祖がベルベル人だという人がいた。彼は自分の顔を指した。「アラブ人とは違うだろ」

私にはその違いはよくわからなかった。だが、チュニジアには、彼のようにベルベルのルーツを忘れずにいる家族がたくさんいることと思う。それは重要なことで、私にも非常に興味深かったが、ベルベル語を学ぶことにはつながらなかった。

その後、私はチュニスである女性と知り合い、アラビア語を教わる機会を得た。聞けば、彼女もベルベル系の家族の出で、今も南部に一族が暮らしているという。彼女自身はアラビア語しか話せないが、母はベルベル語も話せるとのことだった。

彼女はとても親切な人で、私がチュニジア南部に関心を持っていると知ると、ガベスにいる知人を紹介してくれた。その知人を頼って私がチュニスを出発したのは、2024 年 3 月 22 日のことだった。

(写真:ガベスにある魚のモニュメント)


思考・評論|擬人化

擬人化

私たち人間の認識に備わっている基本的な装置のひとつは擬人化だ。私たちにとって人間を認識できるか否かは重要なので、認識の癖として、なんでも人間だと捉えるようになってしまったのだ。

私たちがペットの犬が笑ったり、悲しそうにしたりしているように思うのも、この擬人化の結果だ。動物学者は擬人化をしないように動物を見る訓練をしているから、そうはみないし、別の言葉で説明する。もっとも、ペットを人間扱いしても大した問題は起こらない。だが、擬人化によっては大きな問題を引き起こすこともある。

それは陰謀論だ。陰謀論はあらゆる出来事の背後に人間の存在を見るが、これも世界を過剰に擬人化したものといえよう。

擬人化について興味深いのは、私たちは人間も擬人化することだ。人間だから擬人化して当たり前だろう、と思うかもしれないが、私たちも動物の一種であり、動物的な性質がいくつもある。だが、こうしたことに普段は気がつかないのは、私たちが人間を擬人化しているからだ。

また、私たちが互いに言葉を交わし、理解した気になるのも、相互に擬人化しているからだ。とすると、擬人化が相互理解の鍵となっているということとなる。これはまさしくそうで、擬人化の停止が起きるとき、大量虐殺もともにやってくる。

このような悲惨な事例を持ち出さずとも、私たちは外国人や精神病の人や貧困層に対しては擬人化を控えめにして、人間として扱わないように努めている。それどころか、「野蛮」「空気を読まぬもの」「臭い」「乱暴」「けだもの」などと動物の一種として認識している。

そこで思うのだが、もしかしたら、本当の動物、犬や猫、象や熊も実は人間で、ただ私たちが擬人化できないだけなのではないだろうか。動物は人間なのだが、私たちはそう認識することができないのだ。

狐や狸は人間に化けるというが、化けるというより、むしろ元の姿に戻ったというべきであろう。