苦い文学

友人の旅立ち

世界中の人たちが今、どこに旅行に行きたいかといえば、それは日本なんだ、と私の友人はいう。

彼によれば、日本は治安もいいし、道にはゴミひとつ落ちていないんだそうだ。しかも日本人は礼儀正しくて、民度が高いから、不快な目にあうことなんか絶対にない、と彼は言い張る。

「もちろん、そればかりじゃない」と彼は熱弁する。「魅力的な観光地と、安くておいしい食べ物でいっぱいだ。だから、観光客たちは、すっかりこの国のトリコになってしまうんだ。帰国したくなくて、日本ロスなどという言葉までできたくらいさ」 日本のこととなると友人はもう夢中なのだ。

そんな友人がこのたび、念願の日本旅行に出発することになった。憧れの日本に行くために、何年もコツコツとお金を貯めてきたのだ。向こうに知り合いがいて、空港の送り迎えからガイドまでやってくれるのだそうだ。

正直いって私はうらやましい。私たちの日常は残酷なほど苦しいものだから。満員電車では窒息寸前だし、菓子パン中心の食事では元気も思いやりも生まれない。疲労と恨みばかりが沈澱していく場所だ。

「でも日本は違う。日本人は違うんだ」 うわずった声で繰り返す彼に、私はただ無言でうなずくほかなかった。

出発の日、見送りに同行した私が「くれぐれも日本ロスには気をつけてね」とふざけると、友人はうれしそうに笑った。そして、赤いパスポートを握った手を振り、軽やかな足取りで、成田空港の出国ゲートの行列の中に消えていった。

明日の今頃には、今度は成田空港の到着ロビーで私は待っていることだろう。ついに憧れの国にやってきた友人を、日本人として出迎えるために。