苦い文学

摂州合邦辻

『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』は、今から約 300 年近く前に上演された浄瑠璃で、その最後の「合邦庵室の段」(下の巻、合邦内の切)を上演する素浄瑠璃の会が、12月27日の午後、田町にある港区伝統文化交流館で開催された。素浄瑠璃というのは、語りと三味線だけで演ぜられる形式で、今回は浄瑠璃は竹本越孝、三味線は鶴澤三寿々の両先生が舞台に上がられた。私がここで先生というのは、どちらの方も今、私が教わっているからだ。

私がこれまで見た素浄瑠璃は長くても 30 分程度だったが、今回は約 80 分だという。開始前にトイレ休憩はないので行ってください、とアナウンスがあったほどだ。こうした会では私でも若いほうに入るくらいなので、これは実に適切なことであった。私ももちろん行った。

語りと奏者にとってもこの長さは大変で、義太夫講座のときに聞いた話では「命懸け」「体力がもつかどうか」とのことだった。そんな演目なら行かねばなるまいということで、時間のやりくりをつけて行ったのだが、この日、私は少し疲れていた。それで初めのうちはなんだか眠かった。しかし、聴くにつれてだんだんと目が冴えてきた。そして、坊主の合邦が自分の娘である玉手御前(お辻)を刀で刺すクライマックスでは語りの気迫と三味線の激情にすっかり呑まれてしまった。浄瑠璃には床本というテキストがあり、太夫はそれをもとに語るのだが、語りは激しくなるとそのテキストでは表記できないところまで行ってしまう。私はテキストをもとに考え、なんでもテキスト化できるとの前提で考えるので、それを越えられてしまってはもう手も足も出ない。

さて、この絶頂の後に、物語の終結部として、玉手御前が合邦に刺されるまでに至る動機の解き明かしパートがくる。「そんな偶然あるものかな」という点もありつつ意外に周到に理詰めで回収されていくのも、推理小説的で興味深かった。

上演後、竹本越孝先生から感謝と「自分で限界を決めずにもっと挑戦したい」というような挨拶もあった。私は、今年は音楽、義太夫、お笑いなどいろいろ行ったが、それも自分としてはテキストという限界を出ようとしていたのかもしれず、その締めくくりにふさわしいものを見たように思った。