苦い文学

マナーの行き着くところ

その国は、電車のマナーが厳しい。人々は都会にしか仕事がなく、しかも都会には住めないので、いつも満員電車を使うしかないのだ。それで人々が互いに不快な思いをしないようにと、鉄道各社が思いやりをもって定めたのだ。

どれくらい厳しいかというと、乗るときからして大変なのだ。整列乗車、駆け込み乗車禁止、さらには降りる人優先だ。乗ったら乗ったで、ドア付近での滞留は厳禁で、車内奥へと進まねばならない。しかも、車内での過ごし方にも細かいルールがあって、私語・携帯電話・飲食・化粧のすべてが禁止されている。荷物の持ち方だって、卵を抱えるようにするのが掟だ。

それだけではない。鉄道各社は乗客のために、乗客の心にまで踏み込みはじめた。電車に乗るには心も美しくなければならないというのだ。でなければ、高齢者・妊婦・体の不自由な人・子どもづれの人に対して誰が慈しみを発揮できようか。

そんなわけで、その国では電車に乗れるのは、マナーを守る高潔な心の持ち主だけになってしまった。AI を有効活用しているので、そうでない人々には自然と切符が発行できないようになってしまったのだ。それで、心にゆとりのある階層の人々だけが車両をゆったりと独占するようになり、それ以外の人々は電車に乗れず、徒歩かロバで移動することになってしまった。これでは職場のある都会には入れない。電車に乗れない連中を、都会の検問がどうして通そうか。

電車に乗れない人々はもはや生きていくことができなくなり、ついに怒りを爆発させた。「すべての車両を解放せよ!」「本数を増やせ!」「満員電車を解消せよ!」

人々は抗議のデモを企画したが、誰も電車に乗れなかったので、集まることができなかった。そして、鉄道各社が、マナー不要・人格不問の車両の連結を発表したのは、この事件の後のことであった。

今、人々の大半は、その車両にギッチギチに詰められ、身動きもままならず、飲まず食わずに糞尿垂れ流しで、どこかに着く頃には半分くらい窒息死している。こんな有様に、誰もが、あのときマナーを守っていれば、と後悔している。