曇り空の下、新宿の高層ビルが立ち並んでいた。私は世界でも有数の都市が一望できる場所にいたのだった。銀色の巨大な建築物が群れ集うその光景を見て、私は冷たい美しさを感じずにはいられなかった。そして、かつてある韓国の知人が、東京の夜の街を歩きながら私にこう言ったことを思い出した。「今、自分が『あの東京』にいると思うと、飛び跳ねたい気分になるんです」 その人はもう東京で何年も働いているのだった。
私は東京にいてもなんにも感じないし、むしろイヤな気分になることが多い。この病院に辿り着くまでに通り抜けねばならなかった人混みは、不快でしかなかった。だからこそ、私は韓国の知人のこの言葉を記憶していたのだが、この違いはなにに起因するのだろうか。それは、韓国の知人が東京を外から眺めていたのに対して、私は東京の内部の存在としてこの都市を捉えていたからにちがいない。そして、おそらく同様にちがいないのは、私がソウルに滞在するときに感じる興奮を、この韓国の友人は共有しないだろうということだ。なぜなら、そのとき、私は外部からソウルというやはり世界有数の都市を眺めているのであり、いっぽう、ソウル人でもある友人は内部の人間としてしかこの都市を見ることができないから。
私がこのブログに書くものは、たいてい人間が冷酷な構造に飲み込まれていくものばかりだ。私にとって世界とは、どんな人間も最後には挽肉にせずにはいられない残酷な機械だ。私がそんなふうに感じるのも、私がこの構造に飲み込まれている人間だからだ。だが、この構造自体はきっと外から見たら、美しいのだろう。
だが、その美しさはどんなものだろうか。挽肉製造機が美しいのだろうか。銀色にピカピカで、粉砕機のモーター音がリズミカルで、いつまでも見ていられるのだろうか。それとも、それとは違った人間的な美しさがあるのだろうか。外からみれば、高額な医療費も少しは減額されているのだろうか。