私たち人間の認識に備わっている基本的な装置のひとつは擬人化だ。私たちにとって人間を認識できるか否かは重要なので、認識の癖として、なんでも人間だと捉えるようになってしまったのだ。
私たちがペットの犬が笑ったり、悲しそうにしたりしているように思うのも、この擬人化の結果だ。動物学者は擬人化をしないように動物を見る訓練をしているから、そうはみないし、別の言葉で説明する。もっとも、ペットを人間扱いしても大した問題は起こらない。だが、擬人化によっては大きな問題を引き起こすこともある。
それは陰謀論だ。陰謀論はあらゆる出来事の背後に人間の存在を見るが、これも世界を過剰に擬人化したものといえよう。
擬人化について興味深いのは、私たちは人間も擬人化することだ。人間だから擬人化して当たり前だろう、と思うかもしれないが、私たちも動物の一種であり、動物的な性質がいくつもある。だが、こうしたことに普段は気がつかないのは、私たちが人間を擬人化しているからだ。
また、私たちが互いに言葉を交わし、理解した気になるのも、相互に擬人化しているからだ。とすると、擬人化が相互理解の鍵となっているということとなる。これはまさしくそうで、擬人化の停止が起きるとき、大量虐殺もともにやってくる。
このような悲惨な事例を持ち出さずとも、私たちは外国人や精神病の人や貧困層に対しては擬人化を控えめにして、人間として扱わないように努めている。それどころか、「野蛮」「空気を読まぬもの」「臭い」「乱暴」「けだもの」などと動物の一種として認識している。
そこで思うのだが、もしかしたら、本当の動物、犬や猫、象や熊も実は人間で、ただ私たちが擬人化できないだけなのではないだろうか。動物は人間なのだが、私たちはそう認識することができないのだ。
狐や狸は人間に化けるというが、化けるというより、むしろ元の姿に戻ったというべきであろう。