私のよく利用する駅のエスカレーターに人ひとり分の幅しかないものがある。私は乗り込む車両の関係からいつもそのエスカレーターを使っている。
すいている時間のときは、人々はそのエスカレーターを歩いて降りていってしまう。しかし、朝の混雑時は、車の渋滞と同じように前に進めなくなるのか、誰も歩かずに、ただ立って降りていく。そのせいで、エスカレーターの入り口には、乗るのを待つ人々が群がり、人溜まりができている。
ある朝、私がその人溜まりの中でエスカレーターに向かって少しずつ進んでいると、前の方で鼠色のTシャツを着た男が、人を押し除けて割り込むのが見えた。私はそれを見て思った。そのままエスカレーターを駆け降りるつもりなのだろうが、そううまく行くかな。
はたして、エスカレーターでは、この男は立ち止まらずにはいられなかった。彼にとって残念なことに、前は人が詰まっていたのだった。
私は男から6人ほど後ろに立って、男の背中を見ていた。イライラしているようだった。彼は乗り換えの電車に間に合わないと焦っているのかもしれない。それとも、仕事に遅刻しそうなのだろうか? だが、どうすることもできまい。降りることも、引き返すこともできないのだ。彼はエスカレーターにとらわれた囚人だった。私は内心笑わずにはいられなかった。
そもそもエスカレーターは駆け降りたり駆け上ったりするものではないのだ。そういうときは階段を使わなくてはならない。この男はそれを知らなかったのだろうか? 今回のことはいい教訓になろう。もっとも、この男にそれだけの知恵があるならばだが。
私たちを乗せたエスカレーターは下に進んでいった。そして、ついに前の男は最下段に到達した。後ろ上方から見つめる私は、この男が慌てて走り出すのを見たかった。そして遠ざかる男を見ながら「急げ! 急げ! 遅れちゃうぞ!」と笑ってやりたかった。
だが、それはできなかった。なぜなら、エスカレーターの下は左の通路につながっていたから。男は左側に姿を消したのだった。
私はまだエスカレーターで降りている途中だった。下に着く頃には男はとっくにどこかに姿を消しているだろう。エスカレーターを駆け降りたいのにできないので、とてもイライラした。