苦い文学

AKI’O NAKANO

ベルリン自由大学で開催されたセム語方言学会議(Semitic Dialectology Conference)の口頭発表のうち、特筆すべきは、シリア語・アラム語の碩学、Werner Arnold 先生によるものだろう。それは 「中野暁雄のジュッブアディーンからの現代西アラム語による薪についてのテキスト(“Aki’o Nakano’s Western Neo-Aramaic Text from Ǧubbʿadīn about Firewood”)」と題されたものだ。

タイトルだけだとなんのことかわからないが、中野暁雄という研究者が現地で採取し、出版した現代西アラム語のジュッブアディーン方言の民族誌的テキスト集( “Ethnographical Texts in Modern Western Aramaic (1) (Dialect of Jubb’adin)” 1994)があり、そのテキストの「薪(firewood, p63)」と題されたセクションについての発表だ。

その発表の理由であるが、これはこのテキストのもつ大きな「問題」に起因している。このテキストはアラム語(の音韻表記)のみで、英語の語釈も訳もないので、ごく少数の研究者にしかわからないのだ。そこで Werner Arnold 先生が専門家として注釈と訳を試みたというわけだ(ちなみに同書では Arnold 先生の研究も参考文献として挙げられている)。

Arnold 先生によれば、このテキストは、他のアラム語資料には出てこない語彙が現れる貴重な資料ということであった。こういったものを出版した中野暁雄は実にすごい人であったのだ。

中野暁雄は 2008 年に亡くなったが、それまでにアラビア語方言、現代南アラビア語、現代アラム語、エチオピア諸語、ベルベル語などの言語の現地調査を行い、数々のテキストや語彙資料を出版した。そのため、これらの諸言語の研究者の集まる今回の会議では、その名前を知らぬものはないというほどであった。

日本から来た私はこの傑出した学者についていくども尋ねられた。そのたびに私は「中野先生の学生であった者です」と少しえばって答えた。