苦い文学

ベルリンの信号

ベルリンの街を多少歩き回ってみてわかったのだが、信号の時間がとても短いのだ。青になったから横断歩道を歩き出し、真ん中の分離帯に到達する。さらに残りの横断歩道へと踏み出す。だが、そのときにはもう赤になっている。つまり、ちょっと幅のある道は青一回分では渡り切ることができないのだ。

しかし、だからといって、イライラさせられることはない。赤で待たされる時間もまた短いのだ。だからすぐに道を渡り切ることができる。

ドイツの歩行者信号が日本とまたもうひとつ違うのは、青信号の点滅がないことだ。青はいきなり赤への変わる。2種類しかない。青信号が点滅すると、私たちはどうしても焦って走り出してしまうが、ドイツではそんなことは起こりえない。いかなるためらいもなく赤に変わってしまうので、かえってスッパリ諦められるのだ。

私はドイツの信号を知る前までは、日本の青信号に心から感謝していた。なぜなら、点滅は青信号が私たちに寄り添ってくれていることの証だったから。それは「ほら、もうすぐ赤に変わるよ。急いだらどう?」という親身のチカチカだったのだ。だが、ドイツの歩行者信号を知った今、私はそう思わない。

日本の青信号は、むしろ、点滅で私たちを煽っていたのだ。政治家が国民を煽るときは、支配を強めようとしているときだ。それと同じで、青信号は点滅によって私たちを振り回し、服従させようとしていたのだ。しかも、考えてみてほしい、赤に変わる瀬戸際に、横断歩道を走って渡ることがどれだけ危険なことかを。

私たちを支配するためなら、その命すら犠牲にしてもいい、そんな無慈悲な青信号の言うがままになるくらいならば、赤信号で渡ったほうがはるかにマシというものではないだろうか。