今年は日本にとって大きな転換の年となるだろう。日本は一億総中流といわれたように経済的に均質性の高い社会であったが、近年は貧富の差が広がり、格差社会に変わりつつあった。今年はこの格差が極限まで拡大し、社会が二分される。つまり、経済的格差が、まったく異なる2種の日本人を生み出すのだ。
それは新米を食べることのできる新人と、備蓄米しか食べることを許されない備蓄人だ。新人は富裕層や政治家たちだ(政治家が備蓄米を放出するのに躍起になっているのはこれが理由なのだ)。いっぽう、備蓄人は私たち貧困層だ。
はじめは新人と備蓄人の間に大きな違いはない。なぜなら、新米とその前年の古米はほぼ同じだからだ。
だが、もっともっと貧富の差が拡大し、古米や古古米などが新人たちの食べる家畜の餌に回されるようになったら、どうなるだろうか。私たち貧困層は、もっともっと古い米しか食べられなくなるのだ。それはもはや米とはいえないくらいに変質し、干からび、虫に食われ、カビだらけだ。毒や棘でいっぱいで、とても食えたもんではないが、私たちにはこれしかないのだ。
だが、数世紀も経てば、私たち備蓄人はそうした古い米をなんなく摂取し、無駄なく消化できるよう適応し、進化してしまう。そして、数万年、数億年ののちには、備蓄人は、新米を食べる新人とは似ても似つかぬ外観の生き物となっていることだろう。
そのとき、新米を食べる新人たちは、人類とは異なる生物へと進化した私たちの観察を始めることだろう。古の n 乗の米を、管状の摂取器官でついばむ私たち備蓄人をレンズ越しに見ながら「やあ、この生物が食べているのは、ビッグバン直後にできた米だ」などと宇宙のロマンに胸を躍らせることだろう。