苦い文学

夜のなかほどへの旅

電車に乗るとき、気をつけなくてはいけないのは、ドア付近から絶対に離れてはいけないということです。

車内には乗客はたくさんいますし、次から次へと乗ってきます。もうドアの前の空間はぎゅうぎゅう詰めです。そんなとき、私たちの耳に忍び込んでくるのは、こんな甘いアナウンスです。

「ご乗車後は扉付近で立ち止まらず、車内なかほどまでお進みください」

そうか、そうか、と、お思いになるかもしれません。こんなところにいてなんになる、車内中ほどに移住しよう、と決意を固めるかもしれません。ですが、はっきり言っておきましょう。これは罠です。絶対に動いてはいけません。あなたがドア付近で掴み取ったその場所を死守するのです。

周りの乗客たちが「なんでこいつ動かないんだ。とんだバカだ」と罵っても、あなたの背中を肘で突き、カバンの鋭い角であなたの脇腹を突き刺そうとしても、微動だにしてはいけません。

中にはこんなふうにささやいて誘惑してくるものもいます。「なかほどはなんて素晴らしいところなんだ」「広々として」「のびやかで」「口臭も体臭もない」

だまされないでください! すべて嘘です。そんなところではないのです。そこは薄暗く、危険で、恐ろしい場所……。もちろん、本当のところはわかりません。いや、違います、ただひとつだけはっきりしてることがあります。なかほどに進んで行った乗客たちのうち、だれひとりとしてここに帰ってきたものはいなかったのです……