はじめは20ドル札がないのに気がついた。おかしいと思って、改めて手持ちの現金を数えてみると、3万円が抜き取られていた。
20ドル札だけならば落とす不注意もあるかもしれないが、3万円の場合は無理だ。そこで、盗まれたのだと私は結論づけた。
お金は部屋のスーツケースに入れておいたから、誰かが部屋に入ったのだ。そして、現金が消えたことに気がついたその日の午前、私は数時間出かけていた。その時間に入ることができるのはホテルの関係者だけだ(チュニジアのホテル関係者のために弁じておくとこんなことは今までなかった)。
そこで私はまずフロントに行き、盗難があったことを告げた。フロントの男性は「部屋に誰か入ることなどない」という案の定の返事だったが、とにかく言っておくことに意味がある。
それから、私はひどくがっかりして過ごした。いつもは鍵をかけておくスーツケースを、開けっぱなしで外出してしまったことを悔やんだ(もっとも、後になって私はスーツケースが壊されていることにも気がついた)。
ああ、3万円あれば何ができただろう! 私はその日の午後、クヨクヨと考え続けた。
高田馬場の決闘で知られる堀部安兵衛は、江戸で巾着切りにいつの間にか大金を抜き取られらとき、これが腕に覚えのある剣豪とでくわしたのであれば、危険な試合に発展したことだろうが、巾着切りの名人でよかった、と感謝したというが、私も心痛のあまりついにそんな境地にまで至ってしまった。
泥棒よ、ありがとう! お金を全部取らずにいてくれて! パスポートも手付かずのままにしてくれて! 見てください、私はこんなに豊かです!
損失を直視したくないあまり、泥棒を称えるという心的機制まで働き出したのだ。だが、そのとき私は海外旅行保険のことを思い出した。