苦い文学

ゴミ箱民族闘争

「日本はなんてキレイなんだろう!」「ゴミ箱などないのに、道にはチリひとつ落ちていない!」「きっと日本人は心が清潔でクリーンなのだ!」

来日した外国人たちが、驚きとともにこう賛嘆するとき、私たちは鼻高々だった。あまりにも得意だったので「日本ではこれが当たり前ですよ。他の国では違うのですか?」などと、トボけてみせたりしたものだった。

だが、やがて、ただでさえ少ないゴミ箱が街から姿を消し、駅からもあらゆるゴミ箱が撤去され、チェーンの喫茶店ではゴミ箱に封印がされ、そして、セルフレジのレシートを捨てる小さなカゴさえも消え去ったとき、私たちはなにかおかしなことが進行していると気がついた。

いつのまにやら、もはや私たちはどこにもゴミを捨てることができなくなったのだ。私たちはそれでも信じていた。「日本人ならばゴミ箱などなくてもやっていける」と。

だが、だが、だが、その結果、すべてのゴミをカバンやリュックに詰め込んで、家まで我慢して持ち歩かねばならなくなったとしたら、どうだろうか。

私たちは何度も試みた。手に持ったゴミを道端に放り投げようと。空き缶をホームの下に投げ入れようと。ああ、だが、それをするということは、日本人であることを捨てることにほかならないのだ!

ここで、ある悲しい、つらい話をさせてほしい。その人は駅で自殺したのだ。ゴミ箱のない砂漠のど真ん中で、手に空のペットボトルを握りしめたまま、これをポイ捨てするくらいならばいっそのこと、と線路に身を投げたのだ。この知らせを聞いたときほど、私は悔しかったことがなかった。ゴミ箱を奪ったこの国を憎んだ。そして、鼻高々だった己を憎んだ。

私たちは、いまや疑いはじめている。ゴミ箱がないことは、自慢に思うことでもなんでもない、と。私たちは調子に乗りすぎたのだ。ちょうどインフルエンサーが、賞賛欲しさに崖っぷちで自撮りをすると決まって転落死してしまうように、私たちの「日本はゴミ箱ない芸、日本人はキレイ好き芸」もいまや私たちの首を締めだしたのだ。

このままだと私たちの未来には絶望しかない。なぜなら、あらゆるゴミ箱が消滅した社会では、人間がゴミ箱になるしかないからだ。人間として生まれてきて、ゴミ箱になりたいものなどあるだろうか? そうならないために、ひとつでもいいから、ゴミ箱を増やそう。命を捨ててゴミ箱を増やす戦いを始めよう。