苦い文学

流す喜び

太古のヒトは気ままに排便していた。なぜなら、その精神は動物そのものであったから。やがて、ヒトは集まって暮らすようになり、それにともなって排泄物も集まり始めた。

集積した糞尿は、そのままヒトの集団の規模であった。そして、ヒトは集積した糞尿を見て、自分とその集団を確認した。糞尿のあり方がヒトの意識を決定したのだった。

やがて、肥溜めの時代が訪れた。この時代のヒトの精神は、肥溜めの糞のように、ひとつの集合意識に溶け込んでしまっていた。肥溜め意識である。

肥溜め意識の時代は長く、地域によっては現代まで続いている。しかし、いくつかの地域では、水洗式便所が大きな変化がもたらした。水洗式便所によって、ヒトは史上はじめて、自分の大便を確認できるようになったのだ。

便器の下の暗い肥溜めに大便を落としていた肥溜め時代は、自分の便を他人の便と異なるものとして認識することはできなかった。しかし、水洗式便所はそれを可能にした。これにより、大便の個別化が進み、それを通じて、ヒトは個人としての意識というものを持つようになった。

現代においては、大便の個別化はますます進んでいる。私たちが検便のさいに、他でもない自分の便を提出するのも、この個別化のあらわれである。

私たちの意識が自分のものであるように、私たちの大便もまた私たち個人のものである。ここにおいて、私たちの意識は、私たち自身の大便と一致したといえよう。

私たちが水洗式トイレのレバーを捻って大便を流すとき、そして、その行為により、目の前で大便が水流に飲み込まれていくとき、私たちはそこに自分の精神の活発な動きを見る。極めて具体的なものとして目視する。流す喜びは、私たちの心の運動の喜びである。

だからこそ、用を済ませて立ち上がったとたん、勝手に流してしまう自動式水洗トイレほど、私たちをがっかりさせるものはないのだ。