苦い文学

機内安全ビデオ

情報を伝えるということは、ただ単に情報を伝えればよいということではない。なによりもそれは相手に伝わらなくてはならない。そのために伝え方が重要になる。

私がこの伝え方の好例としてあげたいのは、飛行機の離陸前に見せられる「機内安全ビデオ」だ。

昔はこのビデオはただ客室乗務員が立って救命ベストを開いたり、チューブにフーと息を吹き入れるようすを見せるだけのものだった。

もちろんのこと、これでは誰も見はしない。そこで伝えるための工夫が必要となるが、ここで発想の転換がなされることになった。

「機内安全ビデオ」から機内が消えたのだ。「機内安全ビデオ」でもっとも大事なのは安全にかかわる情報であるが、その情報を伝えることができるならば、べつに機内であることも客室乗務員の存在もいらないのだ。要するに伝え方を、飛行機のあれこれから切り離したというわけだ。

その結果、さまざまな個性あふれる「機内安全ビデオ」が生まれることになった。私が見たことがあるのはカタール航空のサッカー場と、ポーランド航空の美術館を舞台にしたものだ。

インターネットで検索すると、さまざまな「面白機内安全ビデオ」が出てくる。その発想の豊かさに感心するが、私は危惧せずにはいられない。

なぜなら人間の面白動画欲はエスカレートしていくからだ。私たちはもっと面白くもっと過激な映像を欲しがるようになる。墜落する飛行機を舞台にしたビデオが登場するのも時間の問題だろう。