私はとある国へと旅立ち、しばしの滞在を終え帰国した。その国の首都で私は道路の表面に魅了されたのだった。
その表面は、細かな陰影と無限の形象に満ちていた。繊細なさざなみに覆われたかと思うと、たちまち巨大で無機質な物体が現れ出て、私を驚かせた。印象派風の柔らかな色合いが、数歩あゆんだのちには、中世宗教画の悪魔的な火刑へと転じた。すべてを褪色させる強烈な太陽光のもとでは、これらの形と色の多様性はほとんど奇跡のように思えた。
だが、それは奇跡でもなんでもなかった。道路はただただ歴史を生き抜いてきたに過ぎなかった。この国の首都は、幸か不幸か、東京のように新陳代謝が活発ではなく、いったん作られたものはほぼ永遠に温存されるのだ。道路がこのようになったのは、人々の活動と車輪の通過と雨風とが、天文学的な回数にわたり、その表面を鍛えてきた結果なのだった。
私は滞在期間中、ひたすら散歩をし、この都市の道路の表面を撮影し続けた。私はまったく取り憑かれてしまった。それはあたかもスタニスワフ・レムの惑星ソラリスの海のように私の心に入り込んできたのだった。
それは実際、私たちの知る惑星の表面の画像のようだった。見る人が見れば「ここには数万年前に水があったようだ」とか「隕石衝突の痕跡だ」とか「大規模な噴火活動があったようだ」とか容易に指摘してみせたかもしれない。
そんなわけで帰国後、私は、惑星地学研究の大家である友人に、自分の撮った写真を冗談半分に見せた。彼は「生命が存在する可能性が高い」といって譲らなかった。