夏休みに入った子どもが虫取りをしたいというので、朝早く近くの林に行った。カブトムシやクワガタがいないかと、木の幹を見て回るが、正直いって私は虫のことなどなにもわからない。このまま収穫なしで帰るほかあるまいと思っていたら、子どもが叫んだ。
「あ! クワガタ!」 子どもが虫取り網を振り上げる。そのとき、別の網が木の幹を叩いた。驚いたクワガタはどこかに逃げてしまった。
私はその網の持ち主をにらんだ。それは垢まみれの服を着た男で、私たちのことなど目に入らないふうで「あー、逃げられた。ちくしょー」などとぶつぶつ言って、頭を振っている。
私が抗議すると、「おお、すまん、すまん。てっきりゲンザイかと思って、こりゃ悪かった。で、どこだどこだ、ゲンザイのやつ」と男は見まわした。
私は子どもに言った。「さあ、別の場所に行こう」 だが、子どもはこの挙動不審な男に魅入られたように動かない。子どもが男を呼んだ。「ねえ!」 男はといえば、虫取り網を抱え、小刻みに体を揺すりながら、緊張した顔で木々を探っていた。
子どもは尋ねた。「ゲンザイってなんの虫?」
男は一瞬とまり、口をしばらくモゴモゴさせる。「それは虫じゃないよ。すばしっこくて絶対に捕まらない。ヒラヒラってすぐ逃げてしまう。捕まえなきゃ、いや、捕まえるんだ」
「どうしてそんなに捕まえたいの?」と子ども。
「だって、おじさんには、ひどい過去とひどい未来しかないんだ! だから現在を捕まえるしかないっ!」
「……あ、たしかあっちにカブトムシの大群がいたな……」と私は子どもをひっぱって立ち去った。