苦い文学

じつは

私の知人で言語に関する研究をしている人がいる。研究者の仕事は研究をすることだが、それだけでは十分ではない。研究会や学会に出席して、研究発表をしたり、聞いたりするのも大事なのだそうだ。

私の知人によれば、研究発表にはいろいろな危険があるのだという。私がその危険について知りたがると、ひとつだけなら、と教えてくれた。

「学会発表では発表のあと、質疑応答の時間がある。フロアから質問が飛び、それにひとつひとつ発表者が答えていくのだが、その答えに『じつは』を使うのは、非常に危険なのだ。

「というのも、『じつは』とは、それまでに明かされていない裏の事情を明かすときに使う言葉だ。いっぽう、質疑応答というのは、その直前の発表内容にもとづいて行われるものだ。だから、発表者が質問に答えるときに『じつは……』とそれまでに言っていなかった情報や新たなデータを付け加えるのは、ルール違反なんだ。

「もし、その『じつは』のデータがあらかじめ提示されていれば、質問者はそんな質問はしなかったかもしれない。質問した人にしてみれば、ちょっとバカにされた気分だろう。

「それに他の人々だって、無駄な時間につきあわされたわけで、とても不愉快だ。そんなわけで、いつしか、学会出席者たちの心理に、『じつは』という言葉を聞いただけで、激しくイラだってしまう反応が形成されてしまったのだ。たとえ発表とは関係なくてもね。

「そういえば、ある言語系の学会でこんなことがあった。遅れて会場に着くと、ちょうどひとつ発表が終わったときで、人々がゾロゾロ会場から出てきた。だが、そのようすには驚かずにはいられなかった。まるで暴動の後のようだったのだ。みな顔をしかめ、罵りあい、平気で肩をぶつけ合い、苛立たしげに床を踏み鳴らし……学術の場にそぐわない殺伐とした雰囲気だ。だが、プログラムにあるその発表タイトルをみて納得したね。そこにはこう書かれていたのだ。

《現代日本語における「実は」の用法の研究》

不運な発表者は虫の息だったそうだ」