不良が真面目になったとき、私たちは大喜びする。不良がまともな仕事に就くと、私たちは我がことのようにうれしくなる。
それはなぜだろうか。私たちの社会は帰順者を常に必要としているからだ。改心した不良たちは、私たちの社会に敵対するのをやめて、服従することを選んだ帰順者なのだ。
私たちの社会は不良との永続的な戦争状態にある。不良が投降して私たちの社会に下るということは、私たちの社会の勝利を意味するのだ。
だから、私たちにとって、シオらしくしている不良を見ることは、自分たちの勝利を実感することだ。そればかりでなく、そのような社会に生きる個々の自分たちも勝者となるのだ。
とはいえ、私たちが不良の改心を称賛すると、こう批判する人がしばしば出てくる。
「そんなことで元不良を褒めるのは間違っている。本当に称賛されるべきは、道を踏み外すことなく地道に頑張っている若者たちではないのか。真面目な人間が損をするような社会であってはならない」
こうした批判が的外れなのはいうまでもない。なぜなら、私たちが不良を持ち上げているとき、本当に持ち上げているのは自分達自身なのだから。
だから、私たちは本当のところ、不良になど関心はない。不良をだしにしていい気持ちになりたいだけなのだ。
それが証拠に、改心した不良のその後など誰も関心がない。私たちの社会に組み込まれて、それで終わりだ。
もっとも、自分が利用されたことにいつか気づき、もう一度改心して、もとの不良に戻る、まともな不良もいないではない。