だれもが章雄の登場に驚愕し、動きを止めた。今にも四肢分断されそうだった私に吉田の手が伸び、私を暴漢たちの中から引きずり出した。私は転がるように彼の後ろに隠れた。
この一瞬の静寂ののち、観衆から熱狂の叫びが上がった。「もういちど渡ったのか?」「すごい!」「奇跡だ!」
だが、章雄は「うるせえ!」と怒鳴り、父親を指した。「これだ! この袋(と彼は黒い袋を掲げた)がこいつの奇跡とやらの正体だ! 道の向こう側にいたのは、俺じゃない! こいつが勝手に用意した偽物だ! こいつもこうやって赤信号を渡ったとだましたのだ! お前たちは(と観衆に向かって)こんなものを奇跡と崇め立てていたのか? こんなインチキな人間を市長だと崇め祀っていたのか? こいつは偽善者だ、ペテン師だ! こいつは赤信号など渡りはしなかった! 見ろ! これから俺は本当の奇跡を起こす! 赤信号を渡る!」
おりしも、ちょうど青信号が赤に変わったばかりだった。章雄は車がビュンビュン行き交う道路に向かって歩き始めた。市長が駆け寄って、息子の足にすがった。「やめるんだ! 父さんが悪かった。危険だ! お前の好きなフェラーリでもなんでも買ってやる」
章雄は全身の力を込めて市長を足蹴にした。「俺は、お前の指図は受けない!」
そして、横断歩道の真ん中から道路にダッシュした。車は避ける間もなく、彼をはね飛ばした。彼はアスファルトの上に投げ出され、赤いものが飛び散った。車は方向を見失い対向車線へと飛び出し、直進してきた対向車に衝突した。
あちこちで悲鳴と衝突音が上がった。前方の事故を避けきれずに何台もの車が追突した。歩道に乗り上げた車は、何人もの不運な観衆を巻き込んだ。
一瞬のうちに道路の上に動くものはなにひとつなくなった。吉田の背後から飛び出した私は、赤信号のままの横断歩道をさっさと渡り、駅に向かった。去りぎわ、凄まじい絶叫のなかに「章雄!」という悲痛な叫び声を聞いたような気がした。
途中、刃物やバットを持った男たちが前から走ってくるのにでくわした。「俺たちをだましやがって!」「市長の一家は皆殺しだ!」「逃すな!」と口々に叫んでいた。私は彼らに話しかけ「市長とそのご家族は、まだ薬屋の信号にいるようですよ」と教えてやった。それから、猛スピードで駅に駆け込み、ちょうど来た電車に飛び乗った。(おしまい)