苦い文学

道を渡りし者(12)

「柏木達也先生!」と野上市長が大声で招くと、鉢巻をした老人が人々の間から出てきた。

「えー先生は」と市長が監修に向かって話し出した。「我が市の教育委員会で長らく……植樹祭の時は……それで昨年は勲章を……現在は名誉市民として……されている方であります。では、先生、開会の辞を……」

「開始!」 柏木先生は市長が語り終えないうちにバカでかい声で叫んだ。

もっとも、私は開始などしない。横断歩道の前でただ立っているだけだ。野上章雄はといえば、次から次へと猛スピードで通り過ぎていく自動車の中に飛び出そうと、足を出したり引っ込めたりしている。見ている私もヒヤヒヤするくらいだ。

観客たちは「今だ!」とか「気をつけろ!」とか勝手なことを叫んでいる。だが、急に「あーあ」といっせいに嘆息した。信号が青になったのだ。章雄は一歩後ろに下がり、軽くジャンプしたり、肩を回したりしている。

何人かのおどけ者たちが、青信号の横断歩道に飛び出して、ふざけて踊ったり、奇声を上げたりした。ハーフタイムショーだ。

だが、青信号が点滅しだした瞬間、ひょうきん者たちも大慌てで歩道にかけ戻る。そして、赤の時代が到来した。再び道路は、自動車とトラックとダンプのけたたましい轟音と無慈悲な地響きで満たされる……。

章雄は歩道の端に立ち、肩を落とし、挑むような格好で、交通に意識を集中している。体が左右にゆっくりと揺れる。そして、すっと短く息を吸い込むと、意を決し、足を前に踏み出した。だが、そのとき、背後から数名の男が彼に飛びかかり、黒い袋をかぶせた。

観衆から声にならない叫びが上がる。何が起きたか飲み込めず私も呆気に取られている。誰かが叫んだ。「あそこ! 向こう! 渡ったんだ!」 全員が道路の向こうを見る。

章雄が立っているではないか! 赤信号を渡ったのだ。観客たちは大歓声を上げる。勝利だ! 市長の息子が奇跡を起こした! 拍手が鳴り響く。

向こう側の章雄は私たちに手を振っている。そして、背を向けると軽やかに走り去っていった。

「勝負あり!」 柏木先生が宣言した。と同時に、市長が私の方を向いた。私はこのときだ、とばかりに、すがりつこうとした。だが、そうする前に、市長が怒鳴った。

「こいつだ! このペテン師を殺せ!」

人々が私につかみかかり、歩道にひき倒した。「八つ裂きにしろ!」 私は手足を引っ張られまいと、必死にもがく。すると、歩道に転がされていた黒い袋がむくむくと立ち上がるのが見えた。それは「やめろ! やめろ!」と叫んだ。袋がはねのけられ、章雄が姿を現した。