「へえ、そうなの」と私が男の子に返すと「そうだよ。市長が渡ったんだ」
「今の?」
「うん、市長すごいんだ。それでみんなが市長に選んだんだ。学校で習ったよ」
吉田が割って入った。「黙りなさい。大人の話に口を挟むんじゃない」
息子を追い払うと、吉田は苦々しげな顔で言った。
「市長が渡った。そう言われているのですが、これははなはだ疑わしいのです。何人かの人々はインチキだと主張し、回数に入れていないのです。私の見るところ信頼のおける人々です。もっとも、実際のところは分かりません。じつは私はよそ者なので……そうです。私はあなたと同じように赤信号が渡れることを知っているのです。ですが、この地ではひた隠しにして暮らしています」
「まったく信じ難い」と私は少し腹が立ってきた。「赤信号を渡るなどという簡単なことができない世の中などバカらしいではありませんか。むしろ逆に、赤信号を堂々と渡って、ギャフンと言わせてやりたくなりました!」
「ああ、それだけはやめてください。この問題は簡単ではないのです」
「なにが簡単ではないんです」
「市長ですよ。市長は赤信号を渡るという奇跡を起こしたことにより、今の権力の座に着いたのです。お分かりですか。この町で赤信号を渡るということは、市長に対する挑戦とみなされるのです」
私は思わず唸った。
「だから、私はあなたをここにお連れしたのです。あなたは市長の支持者に殺される可能性だってあったのですよ」
吉田はそれきり口をつぐみ、まるで心の中に灯った赤信号を凝視するかのように考えに沈んでいた。私もやはりこの異常な1日を振り返らずにはいられなかった……。
もうずいぶん前から騒ぎ声が聞こえなくなっていた。吉田の言うとおりだったのだ。外を見ると、闇が黒い液体のように家を浸しつつあった。吉田は急に鋭く息を吸った。
「もう、大丈夫でしょう。今からなら、余裕で東京に帰れますよ」
私はカバンを手に立ち上がり、こわばった体を伸ばした。
「駅までお送りしましょう」と吉田が言ったとき、扉が激しく叩かれ、その向こうで誰かが怒鳴った。
「おい! 出てこい! そこにいるのはわかってるんだ!」