苦い文学

道を渡りし者(5)

男はこれまでの非礼を詫びながら、吉田と名乗った。

「今、この私の家にいれば安全ですが、あのまま外にいたら危なかったのですよ。人々はあなたにむりやり赤信号を渡らせようとしていたかもしれません。車がビュンビュン走っているのもおかまいなく、ね。それどころか、手荒いことをしでかす連中だって黙っていないでしょう。あなたはこの町をひっくり返しかねなかったのです」

「しかし、まったくなぜなんです。車の通っていない赤信号を渡っただけではないですか。それともほかに私がなにかしたとでも?」

「いいえ、まさしく赤信号です。この町では赤信号では人間は止まるものと決まっているのです」

「いや、日本中どこでもそれは同じですよ。交通ルールは一緒なのですから。ですが、車も走っていないのに立ち止まっているのは、時間の無駄ではないですか」

「これは私の言い方が良くありませんでした。この町では、赤信号では人間は止まるべき、とか、止まらねばならない、とか、そんなものではないのです。それは倫理の問題です。町の人間にとって、赤信号はただ単に渡れないのです。それは私たち人間が、水の上を歩けない、あるいは、空を飛べない、といったことと一緒です。そうした意味で、この町では、赤信号では人間は止まるものと定められているのです」

「だから、町の人々は奇跡だと……」

「そのとおりです。それは奇跡、奇瑞なのです。この町では、有史以来、人間が赤信号を渡る奇跡が2回あったと信じられています。ひとつはこの町にやってきた弘法大師が旱魃に苦しむ村人たちを救うために祈祷を行ったさいに、赤信号を渡ったと言われています」

「そんな昔に赤信号が!」

「ええ、意外に古いのです」

「2回目は、いつだかの大震災のさいに、赤信号のため逃げられずにいる人々を、観音様が不思議な力で渡らせて、無事に避難させたということです」

「ありがたや……しかし、たった2回とは……」

「2回です」

そのとき、先ほどお茶を運んできた少年が後ろから口を挟んだ。

「2回じゃないよ、3回だよ。みんな言ってるもん」