苦い文学

道を渡りし者(1)

ある仕事で、とある地方都市に行ったときのことだ。

意外に用が早く済んで、どうやら午後3時の電車に乗れそうだった。そうすれば、暗くなる前に東京に着くだろう。私は急いで駅へと歩いたが、途中、目の前で信号が赤に変わった。

左右を見るが車が来る気配もなかったので、私は立ち止まらずに横断歩道を渡った。そのとき、周囲から叫び声が上がった。

前の歩道で信号を待っていた男が叫んだ。「なんてことだ! 赤なのに渡ってるぞ」 私の背後でも誰かが叫んだ。「すごい! すごい!」

私が渡りきると信号が青に変わり、その瞬間、どっと人々が私を取り巻いた。私は自分の行為を咎められるのかと思い、恐怖に襲われたが、人々の顔にはいかなる怒りも憎しみなかった。ただ、そのかわり、驚きと興奮があった。

人々はみな顔を上気させながら私を質問責めにした。「いったいどうやったんです?」「どこからおいでになったのです?」「私にもできるでしょうか?」

しまいには「なんという勇者だろう!」「ヒーローだ!」「魔法使いだ!」などと私を褒めそやしだした。手を打ち鳴らす者もいた。もしここで、ひとりの恰幅の良い男が私を人々から引き離さなかったら、胴上げが始まっていたかもしれない。