苦い文学

東京の青空

私は電車に乗り、ドア横のスペースに立って、埴谷雄高の『死靈』(講談社全集版)を読んでいた。駅に止まるたびに、私の方のドアがいつも開いた。乗客が次々と乗り込んでくる。だんだん混み合ってきた。乗り降りする人々が肩で勢いよく『死靈』にぶつかってくる。そのたびに、この896ページのハードカバーが私の手から弾き飛ばされそうになった。

私は本を閉じ、胸に抱くと、体の向きを変えて座席の方を向いた。その席には男が座っていて、携帯を眺めていた。禿げかけた頭頂部だけが見え、顔は見えない。抱えていた『死靈』を開く。その大著はまるで男の頭の上に張り出したテラスのように広がった。

するとその時、下から伸びた手が、埴谷雄高の畢生の大作を押しのけた。男が見上げて睨みつけている。

「東京の空は、アメリカ軍が管理しているのを知っていますか」と早口で言った。

「横田空域と呼ばれる1都9県にまたがる広大な青空が、他国に奪われ、好きなように使われているのです! これで独立国家と言えるでしょうか。私たちの上に広がる青空は、私たちのものではありませんか。私は空を取り戻す戦いに加わっている愛国者の一人です。今、私の空を侵犯し、奪おうとしているあなたには、私は絶対に負けるわけにはいかないのです!」

電車が急ブレーキをかけた。乗客たちがいっせいに慣性の法則を思い知る。後ろにいる誰かが私の背中に倒れかかった。はずみで『死靈』は私の手から滑り落ち、この重厚な書物のちょうど角を下にして落下していき、男の鼻の付け根を直撃した。

「あっは!」 男が短く大きく叫ぶ。「ぷふい!」

私は東京の空がいつまでも平和であればいいと思う。