苦い文学

歴史の終わり

当たり前のことだが、時代を遡れば遡るほど、史料は少なくなる。

そこで、遠い昔を知るために、限られたその史料からその時代を再現することになる。しかし、史料が不十分なので、たいていはわからないことばかりだ。

もっとも、わからないことが多いことは悪いことではない。それは歴史研究の原動力だ。私たちが夢中になるあの「歴史ロマン」も、この「わからないこと」があってこそだ。

昔はカメラもビデオもなかったから、写真や映像といったものはまず史料としては残っていない。しかし、誰もがスマートホンを持っている現代では、それこそ「未来の史料」が無尽蔵に生産されるようになった。

やがて立体的な映像記録も普及するはずだから、そうした記録を活用すれば将来の歴史家は過去の時代をまざまざと体験できるようになるだろう。さらに、ネットを通じてあらゆることがデータ化されるため、未来の歴史家はますます簡単に過去を再現できるようになる。

だが、こうなったとき、いったい未来の誰が、歴史に興味を持つだろうか。すべてが記録されていてわからないことなどなにもないのだから、もはや「歴史ロマン」などないのだ。

それに、そもそも、すべてを完全に記録した史料があったとしても、いったい未来の誰がそれを見ようなどと思うだろうか。

録画してあると、かえって見なくなるのと同じだ。そのうち歴史は終わるだろう。