苦い文学

落とし物

私は若いころ、交通事故に遭って死にかけたことがある。

病院に搬送されたが、頭を強打したせいか何日も意識が戻らず、生死の境をさまよう状態だった。

もちろん私はなにも覚えていないが、うっすらと残る奇妙な記憶がある。

私はずっと川のほとりいたのだった。そこには交番があって、外にはベンチが置かれていた。私はそこに座って、川を行き来する船を眺めていた。

その交番には一人の警官がいた。私が外にいるのに飽きて交番に入ろうとすると、彼は無言で外に追い払うのだった。

私はしかたなくベンチに戻り、川を眺め続けた。見ているうちに自分も船に乗って川を渡りたくなったが、いざ立ちあがろうとすると体が動かなかった。

どれくらいそこにいたかわからない。あるとき、影のように薄い存在が交番にやってきた。それは交番に入り、警官と話しはじめた。窺い見ると、なにやら書類を作成しているようだ。

すると、警官が私を呼んだ。私が交番に入ると、警官はそのぼんやりした黒い影の隣に座らせ、こう言った。

「この方が、お前の命を拾ってくれたそうだ。感謝をしたまえ」

私はよくわからないまま、お礼を言った。

「この方はお前に10%のお礼を請求しているが、どうかな」

「お礼?」

「お前のこれから生きる寿命の1割だ」

私がうなずくと、警官は書類を作成した。そして、私はその薄暗い存在に自分の命の10%を差し出した。

その黒いシミは命を受け取ると、奇妙な声を発し、弾むような足取りで立ち去っていった。

警官は私に言った。「さて、お前も交番を出て、こっちの方にずっと歩いて行くのだ」

私は交番を出て、言われた通りに歩いて行った。気がつくと病室の中にいた。

ときどき、私はあの影のような存在について考える。まったく見当もつかないが、私が与えた10%の命を有意義に使っていてくれればと思う。