苦い文学

匂わせ

いま人々をもっとも怒らせているものといえば「匂わせ」以外にない。そして、「匂わせ」るほうからすればこれほど気持ちのいいものもない。つまり、もっとも完璧な自慢なのだ。

普通、あからさまな自慢は、発信者の評価を下げる。だが、「匂わせ」にはその恐れはない。なぜなら、これは証拠を残さず自慢するやり方だからだ。もし自慢していると非難されたとしても、すっとぼければいいだけの話だ。証拠などないのだから。

さらに「匂わせ」は、ただの自慢話よりも聞いている人間にダメージを与える。自慢話は一回してしまえば少なくとも情報としての価値はなくなり、聞き手の関心を繋ぎ止めておくことはできなくなる。だが、「匂わせ」は情報のほんの一部しか提示しないから、かえって相手の好奇心を掻き立てるのだ。

「匂わせ」が多くの人にとって不快なのはこの点だ。「匂わせ」においては情報の主導権はつねに「匂わせ」発信者にあるため、受信者は劣位に置かれるのである。

逆に見れば、「匂わせ」により、発信者は相手に自慢ができるばかりでなく、情報の管理者として相手より優位に立つことができる。この一方的な関係が、「匂わされた」人々を大いに怒らせるのである。

しかも、発信者は、状況次第では「匂わせた」という行為さえ容易に否定することができる。「匂わせ」ほど、巧妙で、受信者に与えるダメージも大きく、それでいてリスクのない自慢はない、と言える。

SNS を通じて広まった「匂わせ」は、現代の科学と人間の知恵が融合した人類最先端の営みと言えるのではないだろうか。