「ちがかった(違かった)」「ちがくて(違くて)」というのは、「違った」「違って」ということだが、若い人はよく使っている。
のみならず、若い人たちの中には「違かった」「違くて」は標準的な日本語だと思っている人も多いのにも気づかされる。
もちろん、標準的な日本語と異なるからといって間違いではないし、どこかの方言から広まったという可能性だってある。
いずれにせよ、「違かった」「違くて」は、標準的な日本語から見て活用の点で非標準的だ。というのも、「違う」は動詞なのに、まるで形容詞のような活用をしているからだ。つまり、形容詞「強い」が「強かった」「強くて」になるように活用している。
「違かった」「違くて」の問題で面白いのは、「違う」に似た動詞はそんな活用になはならないということだ。たとえば「疑う」は「違う」に似ているが、「うたがった」「うたがって」を「うたがかった」「うたがくて」というのは聞いたことがない。「まちがう(間違う)」もそうだ。
となると、「違かった」「違くて」の原因は「違う」の形ではなくて、意味にあるのではないかということになる。一説によれば、「違う」は状態を表すから形容詞に似てきたのだそうだ。だが、私はもうすこし突っ込んで、「違う」と形容詞の「ない」が意味的に似ていることに着目したい。
「これは私の欲しいものではない」は「これは私の欲しいものとは違う」ということでもある。否定というのは、これ以外の何かである、ということを表すから、その点で「これとは異なる」ということを表す「違う」と似てくる。「〜とちがった」は「〜ではなかった」だし、「〜とちがって」は「〜ではなくて」だ。
そこで、この「ない」との類似性により、「違う」は形容詞的な活用をされ出したのではないだろうか。
というのが私の推測だが、違かったらごめんなさい。