このあいだの週末、富士山に登りに行った。登山が趣味なのだ。
しかしそれにしてもすごい人出だった。無理もない。みなコロナのあいだ遠出を我慢していたのだ。しかも日本人だけではない。外国人観光客もいっぱいだ。
私は五合目から登山道に入ろうとしたのだが、入り口にはなんと行列ができている。三合目まで降りてようやく最後尾に辿り着いた。
4時間待ってようやく登山の始まり。だが、なんという登山道だ。登山客でいっぱいでもう押し合いへし合いのありさまだ。こんな状態でもいまさら引き返すわけにもいかないから、のろのろのろのろ登っていく。
登山道は上に行くにしたがい幅も狭まってくる。もう登山客でぎゅうぎゅうだ。あちこちで悲鳴が上がり、子どもたちの泣き声も聞こえる。群衆事故発生だ。押しつぶされて窒息死するよりマシだと、私は人々の頭の上に這い上がる。
頭や肩を踏みつけてぐんぐん登っていく。「この調子だ」と思ったのもつかのま、人間の斜面は次第に険しくなり、ついに壁のようになった。
私はボルダリングの要領で、耳の穴・鼻の穴・目の中に指をしっかり突っ込んで登る。上に手をかけるたびに、苦悶の悲鳴が聞こえるのに辟易したが、次第にその悲鳴を聞いただけで安全なホールドかどうかがわかるようになった。
人間の壁を乗り越えると、比較的なだらかな斜面が続く。私は人間たちの髪の毛をしっかり掴みながら、一歩一歩進んでいく。私の後ろにも同じように人間を登攀している人々が続いていたが、何人かはうっかりカツラを掴んだため奈落に滑落していった。
そして、とうとう私は富士山の頂上に到達した。もっとも、これを富士の頂上というべきかはわからない。なにしろ私が登ってきたのは、富士山に覆いかぶさっている人間の山だったのだから。
ただし、そんな私にもご来光は美しく降り注いだ。手を合わせウクライナの平和を祈ると私は、人々の頭をスイカのように踏み潰しながら一気に山を駆け下りた。