苦い文学

孤独な人々の最後

孤独が犯罪の社会では、思想も厳しく管理されている。

小学校で教わるのは「絆」とか「架け橋」とか「協力」とか「仲良く」そんなことばかりだ。孤独の芽を摘むのに躍起になっている。いつも合唱、団体競技。独唱や個人競技は禁止だ。独創性などもってのほかだ。

いじめはいじめられているほうが悪い。多勢に無勢では、いつだって多勢のほうが正しい。

孤独を奨励するような意見を表明するともうそれだけで危ない。ひとりでのんびりしたい、などもう危険思想だ。「ほっといてくれ」と言っただけで捕まった人が何人もいる。ひとりで食事するのは間違いなくテロリストだ。個室に入ったとたん特殊警察が踏み込んでくる。このあいだだって、数十年前にソロキャンプを勧めた罪で何十人も有罪となった。

もうみんな「わたし」とか「おれ」とか「あたし」とか言わない。いつだって「わたしたち」だ。

仏教も、キリスト教も、イスラムも禁教の憂き目だ。ひとりで修行するのが犯罪的だというのだ。想像をたくましくしてワイセツだという人すらいる。中国や北朝鮮の文物も輸入禁止だ。一党独裁が孤独を助長するからだ。

そのかわり、民主主義は徹底している。ただし、一票を投ずることだけは禁止されている。

もっとも、こんな生活をしているのは一般人だけだ。

権力者や富裕層は、会員制の高級なホテルやレストラン・バー、山奥の豪華なロッジで、ひそかに孤独を楽しんでいる。