いったい、主文が後回しにされたままなどあるのだろうか? 私たちは長いあいだ今か今かと待ち続けているのだ。
もしかしたら、私たちはうっかり聞き逃したのかもしれない。隣の仲間たちとおしゃべりに夢中になって、小突きあってくすくす笑っている間に、主文が読み上げられてしまったのかもしれない。
ふいに、誰かが話すのが聞こえることもある。私たちは急に押し黙り、主文かも、と思って耳をそばだてる。
「……1日1回、大人は3錠、子供は1錠、食後に服用のこと。服用後は車の運転……」
「……次はラジオネーム、《キリギリス》さんからのお便り、こんにちは、いつも楽しく聞かせて……」
「……今まさにあなたの魂をデーモンが奪おうとしていたのです! さあ、その憎しみを捨てなさい、そして聖なる家族を……」
これは主文じゃない。私たちは落胆する。
私たちは主文をすっかり見失ってしまったのだ。主文もなしに宙ぶらりんの状態で、もう何年も何年も途方に暮れて……。
「もしかしたら、私たちは主文を聞く前に死んでしまうのではないか?」
主文なき死という考え、これほど恐ろしいものがあろうか? なぜならそれは死ですらないからだ。
私たちは夢見る。ある日、主文が極刑を運んできて、私たちに本当の死を与えてくれるのを……。