苦い文学

大雪の予報

地域にもよるのだろうが、天気予報で大雪だなんだと騒ぎ立てたわりには、まったく雪が降らなかった。

まいどのことだが、いつも外れる予報ばかりなのだ。もう予報などと名乗るべきではないだろう。

天気予報は昔からあるが、昔の日本人は必ず当てたものだった。あまりにも外すことがなかったので、雨乞いをして雨を降らせたなど言われるようになった。しかし、本当は逆で、外れない予報をしていたに過ぎない。

それくらい真剣に予報をしたものなのだ。命をかけていたと言ってもいい。ところが今はどうだろうか。雨だと言っていたのが一滴も降らなかったとしても、命を差し出すどころか詫びさえしない。信じて傘を抱えて出かけたほうがバカを見る時代なのだ。

昔の人々にとっては、歌が命と同じぐらい大切なものであったから、天気予報をする時も、和歌でしたものだった。その証拠が、小野小町の「ことわりや日の本ならば照りもせめさりとてはまた天が下とは」の歌だ。もっとも、これは雨乞いの歌として誤って伝わっている。

歌による天気予報というこの伝統は、現代にも受け継がれている。

もっともよく知られているのが、「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう」という山下達郎の天気予報だ。しかし、こう歌ったとき、彼はミュージシャンとして命をかけていたのだった。

というのも、もし雪にならなかったら「君への想い」が雪のように「消え残る」ことなどありえなかっただろうし、その結果「ひとりきりのクリスマス・イブ」も、むしろ別れてスッキリという真逆のニュアンスとなっていたであろう。

そのようなわけで、山下達郎は命にかけても天気予報を外すわけにはいかなかったのだ。

現在の気象予報士に、その覚悟はあるだろうか。あれば、あのようないいかげんな予報をするわけがない。

いまこそ、初心に立ち戻って、「クリスマス・イブ」、そして「高気圧ガール」をじっくり聴くべきではないだろうか。