苦い文学

国家と社会

「国家と社会は同じものではない、ということは覚えておいたほうがいいな」と先生は言われた。

「どういうことでしょうか」と私。

「つまり、国家は社会の中に存在するのであって、その逆ではないということだ。もちろん、『その逆』を夢想する人々もいる。国家主義者と呼ばれる人々だ。そうした人々によれば、この世に存在するあらゆるものが国家によって意味づけられることになる。だが、これは本質的には矛盾をはらんでいるが、わかるかな?」

「ええ、なぜなら、国家は一つだけではないからです」

「そうだ。そのため、国家どうしがある事柄に対して異なる意味づけをして、対立することもあるのだ。極端な場合には、この対立が戦争の口実となったりもする。それゆえ、こうした対立を無効化する、いや少なくともやわらげるためにも、国家がすべてではない、つまり国家よりも社会のほうが大きいという視点を持つことが大事なのだ」

「社会どうしが対立することもあるのではないでしょうか」

「確かにそうだ。しかし、社会は国家とは異なり、別の社会と必ず繋がっている。いくつもの連鎖する社会が地球上を覆っているのだ。その意味では、社会は一つだ」

「では、社会という視点に立って物事を捉えればよいということでしょうか」

「そうだ、と言いたいところだが、実はそれが簡単ではないのだ。というのも、社会は国家以上に複雑で、わからないことがまだ多いから。だが、なんにせよ、国家がすべてではない、ということを知るのは重要なことだ」

先生はしばらく黙ると、次のように言われた。まるで自分に言い聞かせるような口調だった。

「だから、国家に必要とされないからといって、気を落とすことはない。社会に必要な存在となることのほうがはるかに有意義なのだ」

私はこの言葉に感動し、その後の人生でいくども思い返すこととなった。先生はもはやこの世にはいないが、ただひとつ残念なのは、国家はおろか社会にも必要とされない場合はどうなるのか、聞いておかなかったことだ。