苦い文学

「になります」

飲食店などで「(こちらが)カルボナーラになります」を「バイト敬語」として、日本語の間違いだという人がいる。

「なる」は「変化」を表すから「持ってきたものがカルボナーラに変化した」というのはおかしいと言うのだ。

だが、そうした人でも「ご馳走になりました」と言わないわけではあるまい。その人が「ご馳走」に変化したわけではないにもかかわらずだ。

おそらく「なる」は「変化」というより「成立」と考えたほうがいいかもしれない。「ある人が大人になる」は「ある人が大人に変化した」というよりも「ある人が大人だ」という事態が成立したと、考えるのだ。

「なる」がこのように事態の成立を表すとすれば、さらに「認識の成立」をも表しうる、と考えたらどうだろうか。

その例が「(こちらが)カルボナーラになります」で、ここでは「(この料理が)カルボナーラであるという認識が(当店では)成立しております」と解釈できよう。

これは店側の認識を伝えることで、客の反応を待っている状態だ。すなわち「差し出された料理がカルボナーラであるかどうか決めるのは最終的に客側である」と断定する権利を客に委ねているのだ。

ところで「カルボナーラになります」はダメだ、「カルボナーラでございます」にしなさい、という人がいるが、断定するかしないかでは大きな違いがある。

「こちらがカルボナーラでございます」と言った場合、店側が「カルボナーラだ」ともう断定してしまっているわけで、客はただその断定を受け入れるしかない。その点では、「客に店側の主張の受け入れを強いる」というニュアンスが生じてしまうので、接客の現場ではそれが違和感をもって感じられるのではないだろうか。

もうひとつ大事なのは「(こちらが)カルボナーラになります」は決して「(こちらが)カルボナーラになりました」とはならないことだ。これでは認識がもう成立してしまったこと、つまりやはり断定になってしまうので、結果として店の主張の受け入れを客に強いることになってしまうためだろう。