大阪府議会で、議員を「先生」と呼ぶのをやめようという提案がなされたということだ。「先生」と呼ばれて議員が調子に乗るのを防止するためだという。
教師や師匠のような教育者こそ、「先生」と呼ばれるにふさわしい、という理由らしい。
だが、「先生」とは果たしてそんなものだろうか。江戸時代の『教訓差出口』(伊藤単朴)ではこんなふうに言っている。
近ごろ、世の中で流行っているあの「先生」という言葉は、合理的で、便利な言葉です。生意気そうな奴に会ったとき、「さま」と呼ぶのは腹立たしいし、「殿」ともさすがに言いにくいが、「もし先生、先生」といえば、相手も低く見られてはいないと考えて、ふさわしい対応をするのだから、本当に「先生」というのは、よい言葉だと思います。
要するに、「先生」というのは厄介な相手をうまくあしらって、面倒を避けるための避雷針のようなものだ。
入管収容所でも、被収容者たちは、自分たちを管理する職員たちを「先生」と呼ぶが、これもいわば「敬してこれを遠ざく」の避雷針的役割を果たしている。
議員にしても同じだ。われわれがこれを「先生」と呼ぶのは、下手なことをして怒らせたらとんでもない害が及ぶのではないかという恐れ、いわば触らぬ神に祟りなしの気持ちからであって、けっして尊敬の気持ちからではないのだ。
それを「われわれが勘違いしてしまうから先生と呼ぶな」というのは、それこそ勘違いというべきで、よくもまあそこまで思い上がったかと、かえって滑稽だ。
むしろ、われわれが「先生」とおっかなびっくり呼ばなくてもいいような、まともな態度を議員たちが身につければそれで済むことではないだろうか。
このままだと、われわれは「先生」と呼べば怒られ、「さん」づけではこっちが不安、というわけで、そのうちみんな「先生」でも「さん」でもなく、「そん」と言って口をモゴモゴさせるのに落ち着くことだろう。